シブヤ大学

授業レポート

2023/5/18 UP

死のワークショップ  「死と時代」

レポーターの私は、若いころ、明け方に目が覚めると、自分が死んでしまう場面を想像してとても怖かった記憶が何度かある。自分が存在しなくなってしまうことを考えると、いてもたってもいられなかった。ところが、結婚して子供が生まれてからは急にそんな恐怖心がなくなった。自分の命が継承される安心感なのだろうか?その後、自分の死ぬ場面を想像することも少なくなった。最近では、年を取り確実に死へ近づいているにもかかわらず、自分が死ぬことなんか忘れて(忘れようとして?)楽しくおしゃべりをして過ごしている。
 
今回のワークショップで先生から次のようなお話を伺った。
<私たちは本当の意味で自分の死そのものついて考えていないことが多い。>
人口減少社会は多死社会でもある。「死について考える」一般的な関心もたかまりつつあるように思われる。死について考えることが一種のトレンドになっている。
でも、先生はこのトレンドについて、次のような違和感を持っているという。

① 誰も死んだことがないのに、なんで分かったかのように死について語ろうとするんだろう。
② 本当に私たちは(分からないはずの)「自分の死」について考えているのだろうか?

 実際のところ私たちの多くが考えているのは「死までの間の生」でしかないように思われる。
終活に関する様々な本や記事でも実際に語られる多くは「死までの生を意味あるものにすること」や「死までにやるべき具体的準備」であり、死そのものを語られることは避けられ、死までの生を明るく受け止めることに力点が置かれている。
結局のところ、私たちは本当の意味で自分の死そのものついて考えていないことが多い。

<哲学者ハイデガーの分析>
哲学者ハイデガーがその著書「時間と存在」でそれはなぜなのか分析している。
ハイデガーによれば、「自分がいまここにいる」という、自分にとって一番大事なことは、いつか絶対に「死」によって失われてしまう。すなわち「死とは不確実な確実性である」
私たちは、心の無意識のところでは死について不安を覚えている。だが、その不安を無意識に抑圧し、忘却している。「死への無意識の不安を無意識に忘れる」ことで、私たちは他愛もないおしゃべりなどをして日常生活を送ることができている。

<自分の死/他人の死の不均衡>
ある調査によると、現代日本において家族などを看取った人々に、自分の死/他人の死についてどのようなことを考えるか?と問われた場合、次のように回答する傾向があるという。

自分の死についてどう考えるか?
① 迷惑をかけないで死にたい。
② 穏やかで痛みなく迎えたい
③ 家族などに見守られて旅立ちたい。

亡くなった人についてどう考えるか?
① 死者が自分を見守ってほしい。
② 死はその人にとって終わりではない。
③ どこかで死者に再会したい。

自分の死については「迷惑をかけたくない」「苦しみたくない」という現実的で消極的な判断が最優先になる。(特に「自分の死=迷惑」感が強烈に強い)
これに対して、他人の死に関しては「見守っていてほしい」「再会したい。」といった、空想的で積極的な願望が広く許容される。
そこでは、自分との関係を大切にすると同時に、故人自身の(あの世での?)幸福も願われる

<死者AIについて>
「死者をデジタルに蘇らせる」技術が現実のものになってきている。
2019年紅白歌合戦の美空ひばりや2022年国葬前日のAI安倍信三のような著名人型AIだけでなく、韓国では、一般人型AIを使って故人と実際に会話できる「Re;memory」を提供する企業が登場している。(AI作成に約310万円)
こうした死者AIには強い賛否両論がある。これは「死者への倫理の中身」にコンセンサスがないことで生じている。過去においては、イエや地域社会、宗教による規範こそが尊重されていたが。現代日本社会では、そのことが混沌としている。

死者AIを批判する主張を分類すると、
① ユーザー影響説:ユーザーに対して心理的な害をおよぼす可能性がある。
② 死者の歪曲説:死者AIは、死者の実際の過去をゆがめている。あるいは、私たちが知る死者とは異なる死者像を描き出している。
③ 死者の侵害説:死者AIは死者の尊厳を侵害している。あるいは、生者の都合にあわせて死者を道具化している。
などがある。
以上今回のワークショップの講義の中で気になった部分を抜粋した。

私は「死とは不確実な確実性である」「死への無意識の不安を無意識に忘れる」という言葉にとても納得した。誰にでも死は確実に訪れるわけだが、確かに自分の死について四六時中考えていたら、おかしくなってしまう。無意識に忘れることができるように人間が造形されていることに感心する。普段から他愛ないおしゃべりも大事なんだと思う。

これまで「イタコの口寄せ?」などに頼るしかなかった「死者に再会したい。」という願望が、死者のAIにより科学的に実現しているいるわけだ。AI活用法としてはなるほどなあと思える。だが、実際に自分の亡くなった親族のAIと話してみたいかというとどうだろうか?何か気持ち悪さ、うさん臭さを私は感じてしまう。

「自分は死んだらどうなるのかな?」「死んでも自分の魂は残っていてもらいたいな。無になるなんて耐えられない。」「人類は宗教で天国と地獄をどのように考えてきたのかな?」
など今回のワークショップをきっかけに「死について」考えてみたら、自分としては知りたいことや学びたいことがたくさんあると気づかされた。「死までの間の生」を充実させるためかもしれないが、様々な死に対する考察を勉強したいと思う。

また、ふだんの生活の中で、家族、友人、職場の同僚と真剣に「死について」語り合う機会ってほとんどないように思われる。今回のワークショップでも参加者のみなさんから「グループに分かれて、語り合う時間が有意義だった。」「せっかく知り合ったのに残念だ。もっと時間が欲しい。」といった感想が聞かれた。

(レポート:江藤俊哉、写真:小林大祐)