授業レポート
2013/6/28 UP
OCICA~人を介して伝わるアクセサリーと物語~
2011年3月17日。
友廣裕一さんにかかってきた一本の電話から、お話は始まりました。
今日の先生、友廣裕一さんは、
“OCICA”を立ち上げた“一般社団法人つむぎや”の代表をされています。
OCICAとは、宮城県石巻市牡鹿半島の漁家の女性たちがつくっている、
てづくりのアクセサリーのブランドです。
http://www.ocica.jp/
「こちらに来られない?」
電話は、被災地で活動する知人からの応援要請でした。
急な話でしたが、当時自由な立場で動いていた友廣さんは、
<こういう時に自分のような自由な立場の人が行かず誰が行くのか>
とさっそく現地に向かうことにしました。
現地、牡鹿半島に入ると、
石巻市の中心市街から遠いためにボランティアが来られていないことが分かり、
ボランティアが通えるよう、知人に協力を仰いで継続的に人が行ける仕組みを整えました。
次に、漁師さんの奥さんたちにできることがないか相談されました。
牡鹿半島にはたくさんの浜があり、浜ごとに漁港があり、コミュニティがあります。
その一つ、牡蠣の養殖で知られる牧浜では、
震災で甚大な被害があり牡蠣の収獲ができなくなっていました。
それでも男性には瓦礫処理などの力仕事がありましたが、
震災前は牡蠣の殻剥きをしていた女性たちには、仕事がありませんでした。
仕事がないというのは収入面でも問題ですが、
することがない上に身近な人を亡くしている人も少なくないため、
「自分は生きていていいのだろうか」
などと考えてしまいがちになり、精神面での心配もありました。
必要なのは収入だけでなく「役割」でもあったのです。
また約半数の世帯が家を流されて仮設住宅に入っていたこの地域では、
家が流された世帯と家が残った世帯でコミュニティが二分されつつあり、
かつての牡蠣剥きのように、
分け隔てなくみんなで集まって何かをする場が必要でした。
ただ仕事を作るといっても、
<誰でも、どこででも作れるものを作っても続かない>
友廣さんは、この地域でこそ作れる何かを模索し始めました。
独特の資源として目を付けたのは、鹿のツノ。
地名の通り、牡鹿半島にはたくさんの鹿がおり、
1年に1度の生え変わりで取れたツノがよく道に落ちているのでした。
<ツノを加工して何か作れないだろうか?>
会う人会う人に「鹿のツノありませんか?」と聞いていたある日、
“鹿の大和煮”の缶詰を食べた友廣さんは、
缶詰の裏に記載されていた生産者に連絡を取ってみました。
そこで出会ったのは、猟友会の会長さんでした。
聞けば、猟期以外でも駆除依頼があり、
年間1000頭も獲っているとのこと。
ツノはすべて取ってあるわけではないにせよ、
大きいのは取ってあるそうで、まずはいくらか分けてもらえることに。
(今はちゃんと買っているそうです)
素材が揃い、さてどう加工するか、
とまずは自分でノコギリをひいてみたものの、固くてままなりません。
これだけツノがあるのだから誰か加工している人がいるのでは、
とまたいろんな人に聞いて回っていると、
「昔、捕鯨船に乗っていた人で、趣味で鯨の牙を加工している人がいる」
と紹介してもらいました。
日本三大捕鯨地と呼ばれるぐらいに、古くから捕鯨で知られているところだったのです。
さっそくお会いしてみると、
「自分の技術が役に立つのならぜひ使ってほしい!」
ということで、技術協力をいただけることに。
これで、加工技術も揃いました。
次に考えるのは、何を作るか。
最初はストラップなどを作ってみて、家族やボランティアの人たちにあげたりしたものの、実際に販売してみたら一つも売れませんでした。
2011年10月頃のことです。
鹿のツノはそれぞれ形も太さも違うため、
商品として均一化するのは難しいように思われました。
そこで「変わった素材をデザインできる人を知らない?」と
相談した知人に紹介されたのが、デザイン会社“NOSIGNER”。
http://nosigner.com/
NOSIGNERの方と一緒に検討を重ねて生まれたのが
ドリームキャッチャーのネックレスでした。
OCICAのドリームキャッチャーのネックレスは、
鹿のツノを輪切りにして表面を研磨し、等間隔に細かい溝をつけて、
漁網の補修用の糸を溝にかけて作ったもの。
ドリームキャッチャーというのは良い夢を運んでくれる
ネイティブアメリカンのお守りであり、
鹿のツノは古来より水難・海難のお守りとしても使われていました。
ボランティアでOCICAの制作現場を訪ねて来た人たちが帰ってから
地元のお店にOCICAの商品を置いてくれるよう交渉してくれ、
「置いてくれるそうですよ!」と連絡をいただく、
ということがたびたびありました。
すすんで広報せずとも、そうして着々と販売店は増えてゆき、
2013年6月には全国で40以上の店舗で扱われるようになりました。
一方、制作する女性たちにも変化がありました。
集まって作った後はお茶会になり、
訪ねて来たお客さんとお土産をお茶請けに交流が生まれました。
また最初は難しい研磨の工程はほとんど若い方の担当でしたが、
だんだん自分でやってみたいという年配の方が増えて来て、
若い方に自主練につきあってもらって練習を重ね、
できるようになる人もずいぶん増えたのだそうです。
検品に通るものができたときはみんなで良かったねと喜び、
友廣さんも感動するとか。
友廣さんのお話をここまで伺ったところで、
近くの席の方とお話を聞いた感想をシェアする時間がありました。
みなさんいろいろ思うところがあったようで、
どの輪も盛り上がっていました。
2〜3人で何分か話した後、友廣さんへの質問タイム。
どんな経緯で震災前の時点で自由な身分だったのか、
どんな価値観が根本にあったのか、
どうやって生計を立てているのかなど、
友廣さん自身への質問が多かったように思います。
質問への回答で特に私の印象に残っているのは、
働き方の価値観の根本。
学生の頃から、自分の足で生きていきたい、という思いがあり、
「自分が動いた後ろに仕事ができる」
という生き方をしたかったのだそう。
大学卒業後は、各地を旅する中で、
自分にできることを探していたそうです。
できることといってもスキルは最初は何もなく、
人との関係性の中で探していて、何かを頼まれたときに、
「とりあえずやってみます!」とやってみることを繰り返すことで
少しずつできることが増えていったのだそう。
ブランドそのもの、事業そのものの成り立ちも魅力的ですが、
友廣さんの生き方も魅力的だなあと思った授業でした。
友廣裕一さんにかかってきた一本の電話から、お話は始まりました。
今日の先生、友廣裕一さんは、
“OCICA”を立ち上げた“一般社団法人つむぎや”の代表をされています。
OCICAとは、宮城県石巻市牡鹿半島の漁家の女性たちがつくっている、
てづくりのアクセサリーのブランドです。
http://www.ocica.jp/
「こちらに来られない?」
電話は、被災地で活動する知人からの応援要請でした。
急な話でしたが、当時自由な立場で動いていた友廣さんは、
<こういう時に自分のような自由な立場の人が行かず誰が行くのか>
とさっそく現地に向かうことにしました。
現地、牡鹿半島に入ると、
石巻市の中心市街から遠いためにボランティアが来られていないことが分かり、
ボランティアが通えるよう、知人に協力を仰いで継続的に人が行ける仕組みを整えました。
次に、漁師さんの奥さんたちにできることがないか相談されました。
牡鹿半島にはたくさんの浜があり、浜ごとに漁港があり、コミュニティがあります。
その一つ、牡蠣の養殖で知られる牧浜では、
震災で甚大な被害があり牡蠣の収獲ができなくなっていました。
それでも男性には瓦礫処理などの力仕事がありましたが、
震災前は牡蠣の殻剥きをしていた女性たちには、仕事がありませんでした。
仕事がないというのは収入面でも問題ですが、
することがない上に身近な人を亡くしている人も少なくないため、
「自分は生きていていいのだろうか」
などと考えてしまいがちになり、精神面での心配もありました。
必要なのは収入だけでなく「役割」でもあったのです。
また約半数の世帯が家を流されて仮設住宅に入っていたこの地域では、
家が流された世帯と家が残った世帯でコミュニティが二分されつつあり、
かつての牡蠣剥きのように、
分け隔てなくみんなで集まって何かをする場が必要でした。
ただ仕事を作るといっても、
<誰でも、どこででも作れるものを作っても続かない>
友廣さんは、この地域でこそ作れる何かを模索し始めました。
独特の資源として目を付けたのは、鹿のツノ。
地名の通り、牡鹿半島にはたくさんの鹿がおり、
1年に1度の生え変わりで取れたツノがよく道に落ちているのでした。
<ツノを加工して何か作れないだろうか?>
会う人会う人に「鹿のツノありませんか?」と聞いていたある日、
“鹿の大和煮”の缶詰を食べた友廣さんは、
缶詰の裏に記載されていた生産者に連絡を取ってみました。
そこで出会ったのは、猟友会の会長さんでした。
聞けば、猟期以外でも駆除依頼があり、
年間1000頭も獲っているとのこと。
ツノはすべて取ってあるわけではないにせよ、
大きいのは取ってあるそうで、まずはいくらか分けてもらえることに。
(今はちゃんと買っているそうです)
素材が揃い、さてどう加工するか、
とまずは自分でノコギリをひいてみたものの、固くてままなりません。
これだけツノがあるのだから誰か加工している人がいるのでは、
とまたいろんな人に聞いて回っていると、
「昔、捕鯨船に乗っていた人で、趣味で鯨の牙を加工している人がいる」
と紹介してもらいました。
日本三大捕鯨地と呼ばれるぐらいに、古くから捕鯨で知られているところだったのです。
さっそくお会いしてみると、
「自分の技術が役に立つのならぜひ使ってほしい!」
ということで、技術協力をいただけることに。
これで、加工技術も揃いました。
次に考えるのは、何を作るか。
最初はストラップなどを作ってみて、家族やボランティアの人たちにあげたりしたものの、実際に販売してみたら一つも売れませんでした。
2011年10月頃のことです。
鹿のツノはそれぞれ形も太さも違うため、
商品として均一化するのは難しいように思われました。
そこで「変わった素材をデザインできる人を知らない?」と
相談した知人に紹介されたのが、デザイン会社“NOSIGNER”。
http://nosigner.com/
NOSIGNERの方と一緒に検討を重ねて生まれたのが
ドリームキャッチャーのネックレスでした。
OCICAのドリームキャッチャーのネックレスは、
鹿のツノを輪切りにして表面を研磨し、等間隔に細かい溝をつけて、
漁網の補修用の糸を溝にかけて作ったもの。
ドリームキャッチャーというのは良い夢を運んでくれる
ネイティブアメリカンのお守りであり、
鹿のツノは古来より水難・海難のお守りとしても使われていました。
ボランティアでOCICAの制作現場を訪ねて来た人たちが帰ってから
地元のお店にOCICAの商品を置いてくれるよう交渉してくれ、
「置いてくれるそうですよ!」と連絡をいただく、
ということがたびたびありました。
すすんで広報せずとも、そうして着々と販売店は増えてゆき、
2013年6月には全国で40以上の店舗で扱われるようになりました。
一方、制作する女性たちにも変化がありました。
集まって作った後はお茶会になり、
訪ねて来たお客さんとお土産をお茶請けに交流が生まれました。
また最初は難しい研磨の工程はほとんど若い方の担当でしたが、
だんだん自分でやってみたいという年配の方が増えて来て、
若い方に自主練につきあってもらって練習を重ね、
できるようになる人もずいぶん増えたのだそうです。
検品に通るものができたときはみんなで良かったねと喜び、
友廣さんも感動するとか。
友廣さんのお話をここまで伺ったところで、
近くの席の方とお話を聞いた感想をシェアする時間がありました。
みなさんいろいろ思うところがあったようで、
どの輪も盛り上がっていました。
2〜3人で何分か話した後、友廣さんへの質問タイム。
どんな経緯で震災前の時点で自由な身分だったのか、
どんな価値観が根本にあったのか、
どうやって生計を立てているのかなど、
友廣さん自身への質問が多かったように思います。
質問への回答で特に私の印象に残っているのは、
働き方の価値観の根本。
学生の頃から、自分の足で生きていきたい、という思いがあり、
「自分が動いた後ろに仕事ができる」
という生き方をしたかったのだそう。
大学卒業後は、各地を旅する中で、
自分にできることを探していたそうです。
できることといってもスキルは最初は何もなく、
人との関係性の中で探していて、何かを頼まれたときに、
「とりあえずやってみます!」とやってみることを繰り返すことで
少しずつできることが増えていったのだそう。
ブランドそのもの、事業そのものの成り立ちも魅力的ですが、
友廣さんの生き方も魅力的だなあと思った授業でした。