シブヤ大学

授業レポート

2013/3/15 UP

フタバとシブヤ、少しずつでも近づくために 〜映画『フタバから遠く離れて』の監督と話してみよう〜

この映画と授業を通して、2年経った今を振り返り、見えてなかったこと、やらなければ行けないことが見えた気がしました。
末尾には、“我々ができること”のヒントも記載しています。ぜひチェックしてください!


【1】映画『フタバから遠く離れて』を観る
この映画を観るまで、震災についてその被害や被災した方々について、充分に知っているつもりでした。
テレビで、新聞で、ネットで、いろいろな情報を知り得て、被災した方々の辛さや悲しみ、被害の大きさを理解しているつもりでした。
でも、この映画を観て、東京で何不自由なく暮らしていること、暮らさせてもらっていることに改めて気付かされました。
3月11日の震災後の双葉町が埼玉の廃校に役場ごと避難してからの日々を追ったドキュメンタリー映画。そこに記録されていたのは、廃校に暮らし、生きてゆく人々。
憤りと悲しみ、願い、後悔、そして変わりゆく気持ち。避難して、遠く離れた場所に暮らし、ふるさとを想う。おしゃべりをする、ご飯を食べる、帰れる時がくるのを待つ。
暮らしの全てが震災に、原発に、持って行かれてしまった人たちの流れゆく時間が記録されていました。

どうすればいい? いつになったら元に戻るの? だれが悪いの? 映画を通してたくさんの問いとメッセージを投げかけられました。




【2】舩橋監督の話
最初に舩橋監督の話から。「距離」と「時間」という2つのテーマが挙げられました。

「距離」について・・・
双葉町から遠く離れた埼玉の廃校へ避難した「距離」。そして、遠く離れた東京では福島原発で作られた電気が使われている、それも「距離」。本編で主役となる双葉町は、町ごと埼玉県の廃校に移りました。
距離にして約320㎞の避難。

震災当時、確実に広がり行く放射能汚染を曖昧にした、東電そして日本政府。ひた隠しし続けることで忍び寄る危険。
一方で、双葉町は、町ごと逃げるという道を選びました。
双葉町は、原発を容認して受け入れる事で町はその恩恵を受け、町として成り立ってきた背景が有りました。
そして双葉町の前町長井戸川さんは、原発推進派のリーダー的存在でした。

にも関わらず、井戸川さんは原発の安全神話に疑念を抱き、放射能という見えない敵にあっさりと敗北を認めて、とにかく遠くへ、街ごと逃げた、逃げるしかなかった。
個人的な立場に目をつむり、街を、人を、未来のある子どもを守るための英断だったのです。


命を秤に掛けて、自分がしてきた事の正しさを唱える。それで何が救えるのか。
決断の重さ、厳しさ、答のでない正義、それは「フタバ哲学」である。舩橋監督はそう語りました。物事を、順を追って何が正解かを問うことの難しさ、そこに人の命がかかっていると思うと、本当に怖くなりました。


『フタバから遠く離れて』がフランスで上映されたとき、原発に関して賛否のなか、一つの言葉が出たそうです。

「NIMBY」 “Not In My Back Yard”
「うちの裏庭だけはやめてくれ」

離れた所に原発をつくるなら良いけれど、自分の所は困るよ・・・首都東京から遠く離れた場所に原発をつくり、電気を作り、送ってもらう。
だから東京は安全だよ。私もそのニンビズムの考えの渦中にいて、意識なく暮らしを送っている一人だと、気づかされました。

距離ゆえの地域差別がひきおこす不公平、不平等、私達もまた遠く離れた「距離」によって意識を引き離し、無意識になっていたことに気づかされました。


映画の中で、井戸川前町長は訴えかけます。私達は避難を余儀なくされて、何もかもを奪われた。その原因となる原発は東京へ電気を送っていたと。
距離ゆえの地域差別がひきおこす不公平、不平等、私達もまた遠く離れた「距離」によって意識を引き離し、無意識になっていたことに気づかされました。



「時間」について・・・
震災が起きて以来、おびただしい数のメディアが現場を報道し続けていました。だけどいつの間にか、震災の話は減ってゆき、日々新しい情報に置き換わっていきました。
震災の現場にいた監督も、殺到していたメディア群は徐々に数を減らし、いつの間にか自分しかいなかったと、いっていました。
一過性のこととして都合良く情報操作され、反響や受けだけを狙うメディア。
自分の使命は、あの日から続く時間の中で生きてゆこうしている人達がいて、全てが終わった訳ではなく、まだ始まったばかりの話をこの映画を通して伝えていくことだとおっしゃっていました。


……
また、映画の中で見えてきたのは、時間を追うごとの人の意識の変化でした。ふるさとへ早く帰りたいと願っていた人々が、長い避難生活のなかで、帰れない事を覚悟しはじめる変化。
原発推進派の立場を貫く構えを見せていた、井戸川前町長もまた、時間ばかり流れ、何も変わらない国の対応にジレンマして、原発を持ってしまったことの責任を認める場面。「原発によって確かに豊かな暮らしはもたらされた、しかし、一瞬にして暮らしを奪い、ふるさとが消えた。」と。

映画は避難所での一日一日を丁寧に追いかけ、記録を重ね続けます。映画の中で、生きていく人々を見つめ、時の重みを、生きていくことの重大さを描き続けていました。
潤った街、奪われた暮らし。福島の原発は、誰のためのモノだったのか、映画と監督の話を聞きながら、電気を使いそれに支配されている私がいることも含め、非難されるべきは何なのだろうと思いました。



【3】舩橋監督×木幡ますみ・仁ご夫妻(※)のトークセッション
※木幡ますみさんは「大熊町の未来を考える女性の会」代表、木幡仁さんは前・大熊町議会議員

木幡さんご夫妻は大熊町の原発からは約7km離れた場所にお住まいでした。現在は、会津若松市内の仮説住宅に暮らしておられます。何も進まない保障問題、終わりが見えないことへの不安。中間貯蔵施設の建設への訴え。何もかもが、道理が通ることでないことは分かります。東京に原発があったら、自分の裏庭に汚染物が埋まっていたら……訴えは切実です。

特に約2年経った今も被災の状況は変わらず、廃校を避難場所とした仮設住宅には、お年寄りばかりが残されて深刻な状況になっているところが出来はじめていると仰っていました。
「とにかく時間がありません。慣れない環境の中でお年寄りがどんどん亡くなっています。子どもたちも心配です。国や東電には一刻も早い対応をお願いしたい」(ますみさん)

さらには、市町村で互いの主張する意見に違いがあり、手を取り合ってということが難しい状況であること。汚染の度合いによって、保障や公的な補助に格差があり、それが不平や不満のもととなり嫌がらせなどに繋がる問題になっていること。
「エサをぶら下げられると、どうしてもそれが欲しくなる。言いなりになってしまうものなんです」(仁さん)

私達の耳に届く情報は、「福島」という総称で認識され、このような事が起こっているなんて思いも寄りませんでした。

さらに驚いたのは、賠償の問題についてです。国は賠償となる土地家屋に対して、3つの算出方法で賠償精度を設けたそうです。
その一つには、家屋土地に対して、震災当時の地価を基準とした賠償方法。都市部から離れれば離れるほど、価値は下がり値が付けにくくなります。
全てが国にとって都合の良いことばかり、お聞きした金額はとても元の生活を取り戻せるようなものではありませんでした。


家だけが取り戻せても、暮らしは取り戻せない。畑、学校、コミュニティ、水や木々だって培ってきた沢山の物に取り囲まれているのが生活なのに、それは一切無視される。
帰れない、還してもらえない。自分がもしその立場だったら、大切な人がそんな目に遭ったなら……。


保障がなされないまま、時間が経つほど、疲弊していく被害者側。最低でも5年は戻れない、その先はどうなるか分からない。何もかもが曖昧にされ、どこにその気持ちをぶつけ、責任を言及していけば良いのかも分からない。


「だからこそ、今みんなに知ってもらわなければならない」と映画を通して監督は訴えます。
都市部に暮らす私達が使っている電気の出所。守られている私達の暮らし、支えているもの。
守らなければならないものがあり、生きていくために、生き残るために、大きな決断をした人のこと。

被害の当事者と電気の使用者の関係の上に成り立っていることを知ることが、遠く離れた距離と時間を埋める為のヒントになるんじゃないか。
監督と木幡夫妻の話を聞いて、意識すること、理解することの大切さを教わりました。




【4】我々にできること

最後に、震災から2年経って、今何ができるのかと質問がありました。
「現状を知ってください。放射能について、原発について理解してください」(木幡夫妻)
「日本、そして世界中で上映されることで、映画を通して、この現状に対する理解を広めたい。撮影中の続編もぜひ観ていただきたい」(舩橋監督)

個人として活動の場をもたれるのならと注目したい団体や取り組みを監督が紹介してくださいました。
ウォッチし続けたり、また、各自でできるアクションを見つけてください。未来を繋ぐ子どもへ悲しみだけが残されないために。

◆福島原発告訴団
東京電力福島第一原子力発電所の事故により被害を受けた住民で構成し、原発事故を起こし被害を拡大した責任者たちの刑事裁判を求め、厳正な捜査と起訴を求める

◆ ふくしま集団疎開裁判 
子どもの安全な場所での教育を求める


授業当日、木幡ますみさんがお持ちくださった「福島の子どもたちに、きちんとした長期的な甲状腺検査を!」という
要請書(北海道がんセンター 西尾正道院長より内閣総理大臣、復興大臣、環境大臣、厚生労働大臣宛)への署名に、舩橋監督はもちろん生徒の皆さんが協力してくださいました。


(ボランティアスタッフ・板橋織恵)