シブヤ大学

授業レポート

2011/2/4 UP

それは、私のことですか?―虐待と家族を考える―

虐待って何ですか?
新聞やテレビ、最近特に目立っているように感じられるかもしれない親による子どもへの虐待に関するニュース。
それは、もちろん、ここ最近のことではなくて、表に出なかっただけで、私たちが知らないだけで、哀しいけれど、恐ろしいけれど、それは、あちらこちらで起こっていたことでしょう。
この授業は、原宿カウンセリングセンター所長である臨床心理士の信田 さよ子氏を先生に招き、身近に起こり得る「児童虐待」をキーワードに、家族、親と子の絆に関して考える授業です。 
ただ講演を聴くのではなく、生徒それぞれが持つ身近な関係について、じっくりと見直し、また疑問や想いを素直に先生にぶつけてもらいたい、そんな思いから、あたたかな明りの灯るカフェで授業を開催。
なぜ、この授業を受けてみようと思ったのか、集まった生徒さん、それぞれの境遇や想いはそれぞれです。
幼稚園の教諭として勤める方は、勤めるなかで、向き合うべき相手は園児だけではなく、園児とその家族に及ぶことを感じられたことがきっかけとなって、また、御自宅のマンションでの尋常ではない子どもの泣き声に、相談所に連絡をした経験がきっかけとなって授業に足を運んだ生徒さん、実体験ではないけれど、虐待と躾との線引きは何か、ということに疑問を持って参加された方、若い人が児童虐待をどう捉えているのかを聴いてみたいと考えた生徒さん、様々でした。
そのひとつひとつの想いを紐解くかのように、児童虐待の歴史から始まり、現在の法制度、「家族」というものについて、話が進みます。

児童虐待=Child Abuse
アビューズとノーマルユース、この曖昧さを伴う児童虐待というものに、まず認識を持つことが大切、と先生が語ります。
もともと日本での虐待の起こりというのは、戦災孤児や捨て子を意味するものでした。
それは、「本当は育てたいのに、育てられない」という苦渋の選択によるものです。
しかしながら、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」が発行される1975年には、生活苦による育児放棄ではない、家族内で起こる「見えない虐待」が始まり、1990年のバブル崩壊時には、虐待死の増加など、益々の深刻化を受け、東京と大阪それぞれで市民団体が発足するほどの社会問題へと発展していきます。
「法は家庭に入らず」の精神が根強く残る日本では、法整備は遅れ、被害児を保護することでしか、虐待に対処する術がない、というジレンマを抱えながらも、徐々にいかに社会が被害児を守るか、ということに流れが生まれていきます。
児童虐待と言われるものには、
・身体的虐待
・ネグレクト(育児放棄)
・心理的虐待
・性的虐待
この4つと、父から母へのDV目撃、という心理的虐待に含まない第5の虐待に分かれるとのこと。
子にとって絶対的支配者である親の強烈かつ完全な「所有」によって起こり得るものであり、虐待は、自分とはまったく異なる世界に起こっているものではない、という認識を持つことが、まず私たち、社会に在るものとしての責務かもしれません。

言葉を持つことによる認識
虐待防止法やDV防止法が制定され、「DV(ドメスティックバイオレンス)」や、「虐待」という、家庭内での暴力に名前が付けられ、その名前が社会に浸透し、近代家族の変化にようやく目が向けられます。
家族=やすらぎの居場所、だけではなく、「家族の中でも暴力が存在する」という認知がなされるのです。
言葉を持つことにより、言葉を知ることにより、見える事実が在り、救われるものごとがあると言います。
特に小学校3年生以下の子どもにとって、家族というものは、持てる社会全てであり、親の築くスタンダードによって支配されるものであり、この頃の子どもというのは、親から得るものは全てで、「こういうもの」として捉え、たとえ暴力を受けていたとしても、虐待という言葉も持ちえず、認識も持ってはいません。
家族というプライバシーに対して、公共性を持つ国家や社会がどう関わっていくのか、リスクはあります。
しかしながら、リスクと隣合わせであったとしても、メリット=救われる命がある、ということの追求が求められるという側面もある、そんなふうに先生は話され、御自身の活動をしています。


私たちが日頃目にする、児童虐待に関するニュース、
親から暴力を受けているということが明るみになり、その子どもが守られるケースもあります。
しかし、虐待により命を落とした、というケースもあります。
徐々に法整備がなされ、社会全体での「家庭内で起こる暴力」というものへの認知が広まっているとはいえ、まだ守りきれていない幼い子どもの命があるという事実、虐待は、遠い場所で起こるものとは限りません。
家族、親子や夫婦、兄弟とは、本来一番に心が安らぐ居場所でありながら、それが危ぶまれる可能性は、誰にでも持ち得るということを考え、今、あなたにとっての「家族」を見つめ直してみませんか?


(ボランティアスタッフ : ヤマザキケイコ)