授業レポート
2006/11/2 UP
授業レポート
講師の松田先生は映画に字幕ならぬ音幕(視覚障害者が映画を観るときに必要な音声ガイド)を制作されており今回の授業は次の2点を軸に展開された。
・映画を観るのではなく聴くという新しい鑑賞法の提案
・社会における視覚障害者&晴眼者(眼が健常な方)の関係性
まず前者について、私達生徒は授業内で同じ映画を3パターンで鑑賞した。
①音のみ
②音+音声ガイド
③音+音声ガイド+映像
①は映画を眼をつぶって鑑賞しているようなもので役者のセリフやBGM、雑音などでシーンを想像するしかなく正直情報量がたりなくて、内容が全く分からなかった。ただ視覚障害者にとっては普通の映画がこう聴こえているのだと思うとショックを感じた。
②ではちょうどテレビの副音声放送のように視覚障害者向けに映像の様子を解説した音声ガイドが①にプラスされた形で映画が流された。①に比べ情報量が増え、シーンが想像しやすくなったが音声ガイドが役者のセリフにかぶって聞き取りづらいところがあった。
字幕と一緒で全ての情報を伝えようとすると映画は鑑賞しづらくなる。伝えるべき情報、伝える必要がない情報の選別が重要なのだが、こういった視覚障害者向けの音声ガイド付きの映像作品がいまだ少ない日本ではそのノウハウが発達していないのが現状である。
最後の③では①+②に映像を付け足され、晴眼者にとっては普段映画を観るのと変わらない状態だった。①から③と観ていて感じさせられたのは、自分がどれだけ視覚に頼って生活しているかだ。テーマに「新しい鑑賞法のススメ」とあるとおり私は映画の新しい感じ方をこの授業を通して学ぶことができた。
私は今回の授業で上記の3パターンの映画鑑賞法を通して晴眼者が視覚障害者を知る良い機会になり得た。視覚障害者の“見えない”という当たり前を、目をつぶって映画を観ることによって私は一瞬だが“見えない”世界を疑似体験した。
点字ブロックや音響式信号機、技術の進歩で障害者がより活動しやすい環境作りが可能となった日本だが、そういう環境がより有用になるには晴眼者も視覚障害者を知る必要がある。
障害者と聞いて物怖じするのではなく、逆になんでもかんでも世話を焼いて過保護になるのではなく、「視覚障害というものを知って的確なサポートをしよう!」という松田先生の言葉が非常に印象的だった。今回の授業で視覚障害を知る良いきっかけが持てることができた!
(ボランティアスタッフ 市川正吾)
・映画を観るのではなく聴くという新しい鑑賞法の提案
・社会における視覚障害者&晴眼者(眼が健常な方)の関係性
まず前者について、私達生徒は授業内で同じ映画を3パターンで鑑賞した。
①音のみ
②音+音声ガイド
③音+音声ガイド+映像
①は映画を眼をつぶって鑑賞しているようなもので役者のセリフやBGM、雑音などでシーンを想像するしかなく正直情報量がたりなくて、内容が全く分からなかった。ただ視覚障害者にとっては普通の映画がこう聴こえているのだと思うとショックを感じた。
②ではちょうどテレビの副音声放送のように視覚障害者向けに映像の様子を解説した音声ガイドが①にプラスされた形で映画が流された。①に比べ情報量が増え、シーンが想像しやすくなったが音声ガイドが役者のセリフにかぶって聞き取りづらいところがあった。
字幕と一緒で全ての情報を伝えようとすると映画は鑑賞しづらくなる。伝えるべき情報、伝える必要がない情報の選別が重要なのだが、こういった視覚障害者向けの音声ガイド付きの映像作品がいまだ少ない日本ではそのノウハウが発達していないのが現状である。
最後の③では①+②に映像を付け足され、晴眼者にとっては普段映画を観るのと変わらない状態だった。①から③と観ていて感じさせられたのは、自分がどれだけ視覚に頼って生活しているかだ。テーマに「新しい鑑賞法のススメ」とあるとおり私は映画の新しい感じ方をこの授業を通して学ぶことができた。
私は今回の授業で上記の3パターンの映画鑑賞法を通して晴眼者が視覚障害者を知る良い機会になり得た。視覚障害者の“見えない”という当たり前を、目をつぶって映画を観ることによって私は一瞬だが“見えない”世界を疑似体験した。
点字ブロックや音響式信号機、技術の進歩で障害者がより活動しやすい環境作りが可能となった日本だが、そういう環境がより有用になるには晴眼者も視覚障害者を知る必要がある。
障害者と聞いて物怖じするのではなく、逆になんでもかんでも世話を焼いて過保護になるのではなく、「視覚障害というものを知って的確なサポートをしよう!」という松田先生の言葉が非常に印象的だった。今回の授業で視覚障害を知る良いきっかけが持てることができた!
(ボランティアスタッフ 市川正吾)