授業レポート
2007/11/21 UP
“染付(そめつけ)”-白と青の食器の魅力-
戸栗美術館での講義、1時間30分。
私は人生で初めて「食器」と真剣に向かい合いました。
今回のテーマは、大きく2つ。
① 染付について
② 古伊万里焼き食器の魅力
講義テーブルには、美しい古伊万里焼きの食器が置かれています。
じっくり眺めながら、中島先生による講義スタートです!!
① 染付について
“染付”とは日本独自の言葉で、焼き物では「文様を描くこと」を意味します。
描く技法も、描かれた食器自体も「染付」と呼ばれます。
実は、“焼き物に絵を描く”のは斬新なことで、焼き物の歴史の中でも新しい方です。日本の焼き物文化は、1万2千年前の縄文土器からあるにも関わらず、文様が描き始められたのは、桃山時代に入ってからとのこと。
では、染付が始まる以前はどの様な歴史だったのでしょうか?
それ以前の焼き物にも、目印程度の文様はありました。焼き窯で、自分の製作物を見分ける為の「窯印(かまじるし)」と呼ばれるものです。
また、鎌倉・室町時代の瀬戸物には、美しい彫文様や印がありますが、呪術的な意味が強かったようです。
例えば、農家では「悪い気が来ませんように」、「豊作になりますように」と願い、大事な種もみを印入りの壺に入れていました。他には、唯一装飾のあった瀬戸焼もあったようです。部下に褒美として渡す物で、中国から由来しています。
このような歴史があり、いよいよ染付の歴史が始まります。
きっかけは…隣の国・中国から美しい染付が入ってきたことにあります。「白地に青色」の文様の美しさに、きっと日本の人々は驚いたことでしょう。
染付は、すでに14世紀には日本に伝わっているのですが、実際に「白と青」で描かれ始めたのは、17世紀初め。朝鮮半島やベトナムでは15世紀に始まっていることを考えると、200年近く差があるのですね。
なぜでしょうか?
中島先生曰く、朝鮮半島やベトナムは中国と陸続きのため、勢力を振るっていた中国と同じものを作る必要性があったのでしょうね、とのことです。なるほど、染付文化の広がりも、政治的背景があるのですね!
一方の日本は、中国からの美しい食器をただ眺めていただけではありません!「白色」をいかにして作り出すか、悪戦苦闘していました。その努力の結果が「志野焼」です。
「青色」成分はコバルトです。日本の土壌にはコバルトがなかった為、初めは土に多く含まれる鉄を使い「茶色」を作り出しました。
そしてようやく、17世紀になって染付文化が一気に花開くことに!
ちなみに、“染付”は英語で「blue and white」ですが、必ずしも「青色」とは限らず、「茶色」の場合もあるかもしれません。焼き物が、白地に何色かで描かれていれば「染付だね!」と言われていたそうです。
② 古伊万里焼食器の魅力
食器は、焼き物の種類のうちの一つです。
食器が広まったのは、染付と同じく、桃山時代。磁器のみだった焼き物から、「志野焼」・「織部焼」など陶器が誕生したのも、この時代です。
桃山時代に染付食器のキーワードがありそうですね。
染付食器文化が国内で発達する前は、日本はオランダから注文を受けて大量に食器を作っていました。形・厚さなど技術に磨きをかけていたのです。ところが、18世紀になると、注文がパッタリ来なくなってしまいます。
理由は2つ。
一つ:中国が鎖国を止めたため。…諸外国は、中国から良質で低価格の物を買うように。
一つ:ヨーロッパでも磁器を焼くようになったため。…マイセン、ウエッジウッドなどが誕生し、自国生産の食器を使うように。
では、日本はどう対応したのでしょうか?
それは、「新規顧客開拓」。
外国ではなく、国内の少し身分の高い人に、素敵な伊万里焼食器を売ろうと考えました。基本は丸い形で、鳥や魚の形の皿もあります。17世紀に技術を鍛えただけありますね!
日本人は、細かい作業や技術の向上に長けていると言われる通り、染付の技法もどんどん向上し、食器も一般に広がっていきました。
でも面白いことが1点。
当時の染付は、あくまでも“日常使用する”食器なので「作品」ではありません。「製品」なのです。どんなに巧妙な絵が描かれた皿でも、10枚一組・20枚一組で売られる「製品」だったのです。
一般の人々の生活に根付いていて、かつ芸術性も高い伊万里焼。
今でも魅力のある理由が、少しわかった気がします。
講義の後は、実際に手で伊万里焼に触れ、先生のお父様でもある中島誠之助氏(「いい仕事してます」で有名でいらっしゃいます♪)の古伊万里焼コレクションを堪能しました。様々な「からくさ」文様の古伊万里焼は、ため息が出る位素敵です。生徒のみなさんから先生に質問も飛び出し、メモを片手に見入っていらしたのが印象的でした。
私自身も、古伊万里焼の食器で誰かを招きたくなりました☆
(その前に、料理の腕を上げることが先かなぁ・・・)
(ボランティアスタッフ 西村歩)
私は人生で初めて「食器」と真剣に向かい合いました。
今回のテーマは、大きく2つ。
① 染付について
② 古伊万里焼き食器の魅力
講義テーブルには、美しい古伊万里焼きの食器が置かれています。
じっくり眺めながら、中島先生による講義スタートです!!
① 染付について
“染付”とは日本独自の言葉で、焼き物では「文様を描くこと」を意味します。
描く技法も、描かれた食器自体も「染付」と呼ばれます。
実は、“焼き物に絵を描く”のは斬新なことで、焼き物の歴史の中でも新しい方です。日本の焼き物文化は、1万2千年前の縄文土器からあるにも関わらず、文様が描き始められたのは、桃山時代に入ってからとのこと。
では、染付が始まる以前はどの様な歴史だったのでしょうか?
それ以前の焼き物にも、目印程度の文様はありました。焼き窯で、自分の製作物を見分ける為の「窯印(かまじるし)」と呼ばれるものです。
また、鎌倉・室町時代の瀬戸物には、美しい彫文様や印がありますが、呪術的な意味が強かったようです。
例えば、農家では「悪い気が来ませんように」、「豊作になりますように」と願い、大事な種もみを印入りの壺に入れていました。他には、唯一装飾のあった瀬戸焼もあったようです。部下に褒美として渡す物で、中国から由来しています。
このような歴史があり、いよいよ染付の歴史が始まります。
きっかけは…隣の国・中国から美しい染付が入ってきたことにあります。「白地に青色」の文様の美しさに、きっと日本の人々は驚いたことでしょう。
染付は、すでに14世紀には日本に伝わっているのですが、実際に「白と青」で描かれ始めたのは、17世紀初め。朝鮮半島やベトナムでは15世紀に始まっていることを考えると、200年近く差があるのですね。
なぜでしょうか?
中島先生曰く、朝鮮半島やベトナムは中国と陸続きのため、勢力を振るっていた中国と同じものを作る必要性があったのでしょうね、とのことです。なるほど、染付文化の広がりも、政治的背景があるのですね!
一方の日本は、中国からの美しい食器をただ眺めていただけではありません!「白色」をいかにして作り出すか、悪戦苦闘していました。その努力の結果が「志野焼」です。
「青色」成分はコバルトです。日本の土壌にはコバルトがなかった為、初めは土に多く含まれる鉄を使い「茶色」を作り出しました。
そしてようやく、17世紀になって染付文化が一気に花開くことに!
ちなみに、“染付”は英語で「blue and white」ですが、必ずしも「青色」とは限らず、「茶色」の場合もあるかもしれません。焼き物が、白地に何色かで描かれていれば「染付だね!」と言われていたそうです。
② 古伊万里焼食器の魅力
食器は、焼き物の種類のうちの一つです。
食器が広まったのは、染付と同じく、桃山時代。磁器のみだった焼き物から、「志野焼」・「織部焼」など陶器が誕生したのも、この時代です。
桃山時代に染付食器のキーワードがありそうですね。
染付食器文化が国内で発達する前は、日本はオランダから注文を受けて大量に食器を作っていました。形・厚さなど技術に磨きをかけていたのです。ところが、18世紀になると、注文がパッタリ来なくなってしまいます。
理由は2つ。
一つ:中国が鎖国を止めたため。…諸外国は、中国から良質で低価格の物を買うように。
一つ:ヨーロッパでも磁器を焼くようになったため。…マイセン、ウエッジウッドなどが誕生し、自国生産の食器を使うように。
では、日本はどう対応したのでしょうか?
それは、「新規顧客開拓」。
外国ではなく、国内の少し身分の高い人に、素敵な伊万里焼食器を売ろうと考えました。基本は丸い形で、鳥や魚の形の皿もあります。17世紀に技術を鍛えただけありますね!
日本人は、細かい作業や技術の向上に長けていると言われる通り、染付の技法もどんどん向上し、食器も一般に広がっていきました。
でも面白いことが1点。
当時の染付は、あくまでも“日常使用する”食器なので「作品」ではありません。「製品」なのです。どんなに巧妙な絵が描かれた皿でも、10枚一組・20枚一組で売られる「製品」だったのです。
一般の人々の生活に根付いていて、かつ芸術性も高い伊万里焼。
今でも魅力のある理由が、少しわかった気がします。
講義の後は、実際に手で伊万里焼に触れ、先生のお父様でもある中島誠之助氏(「いい仕事してます」で有名でいらっしゃいます♪)の古伊万里焼コレクションを堪能しました。様々な「からくさ」文様の古伊万里焼は、ため息が出る位素敵です。生徒のみなさんから先生に質問も飛び出し、メモを片手に見入っていらしたのが印象的でした。
私自身も、古伊万里焼の食器で誰かを招きたくなりました☆
(その前に、料理の腕を上げることが先かなぁ・・・)
(ボランティアスタッフ 西村歩)