シブヤ大学

授業レポート

2014/1/6 UP

墨書のすすめ ~美文字のこつ教えます~

■ひたすら墨をする

ぜんぶで2時間の授業でしたが、とぎれとぎれにも40分くらいは、墨をすっていたような気がします。ひたすら墨をする作業、きらいではありません。水から墨をするは、初めてのことでした。記憶によると、私の小学校の習字体験は、すずりに墨汁をたたえ、墨をこりこりするものでした。もうまっくろなのに。思い返せばへんな話です。理由の説明はなかったと思います。江藤先生、お元気でしょうか。

この日の授業の前半は、ほぼ丸ごと、後半の墨書実践に向けた墨ずりでした。みんな、髙山先生の講義に目と耳は預けつつ、手を前後に動かしつづけました。小さいしょうゆ皿が、すずりの代わりでした。かたい墨と皿が、水中でなめらかにこすれます。本当にけずれているのかと不安になるこの手ごたえ、おぼえがあります。

する水は、軟水と、ミネラルが多い硬水が用意されていました。なんと、水が変わると、墨のすり心地がちがうというのです。先生によると、かつて、徳川光圀の妻は、墨書をたしなむたびに「この水はいけない、加茂川の水なら良いのに」と愚痴をこぼしたとか。いやみに感じた光圀はあるとき、加茂川の水を用意してこっそり仕込んでおいた結果、「きょうの水はいい!」と大喜び。その本物の感性にすっかり惚れこんでしまったそうです。こんな話題が、髙山先生から次々に飛び出しましたから、右手を封じられた授業レポーターは、大変な思いでメモを残さなければなりませんでした。

どちらの水を使ったところで墨をするのはやはり時間がかかります。数十回ではまったくの透明。百をこえ、数えるのをやめたころにわずかな変化、部屋の明かりがすこし暗くなったか?と思うほどの色でした。しかし、髙山先生からは、文字を書く道具と漢字の成り立ちのかかわり、高級な墨の香りと記憶についてなど、興味深い話題がつづき、気づけば水はまっくろに。ぶじに、墨書実践の時間をむかえました。

■墨書は自由

まず線を書いてみよと言われ、紙に一筆落とすと、あれ?意外にうすい。水墨画風です。見た目は墨汁でも、学校で使う墨汁とはえらいちがいです。でも髙山先生は「まっくろでなくていい、うすい色が出るほうが、むしろ上手に見える」といいます。なるほど、そうかもしれません。ベタッと黒いより、奥ゆかしく、繊細な気がしました。

おもしろいのは、この授業で用意されていた「筆」のバリエーションです。毛筆はもちろん、わりばし、爪楊枝、綿棒、ツバキの枝。なんでもアリ。さらには自分の指でもかまわない、好きに書けばいいのだといいます。昔の人も、酒の席で一筆をとなれば、てごろな皿で墨をすり、箸や指で描いたそうです。

ここから文字を書く練習が始まるのかと思いきや、先生の見本は「竹」の絵。竹と笹で筆の太細を使いわける練習もかねています。そのまま「海老」の描きかたに発展し、ほぼ絵画教室のような雰囲気。でも、それがとても楽しい。文字よりも絵のほうが、下手でも様になるというか、「こうせねばならぬ」という気持ちにならず楽しめる気がしました。

授業が始まる前は、講座の名に「墨書」の字を見て、書道の指導のような内容だろうと安易に考えていました。でも、筆も文字も半紙も関係ありません。墨で書けばいいのです。道具や手順のルールは、あくまで書道のことであって、日常のお茶が茶道ではないのと同様、カジュアルな墨書は完全に自由です。と、文章に書くと、そりゃそうだという感じですが、学校の習字体験から、墨にかしこまった印象を抱いていたのは、きっと私だけではなかったでしょう。コチコチに固まっていた思い込みのカラを、一枚ずつはがしとり、ありのままに墨の魅力を気づかせてくれる授業でした。

ちなみに、墨をするときの軟水と硬水のちがいについてですが。硬度の高いミネラルウォーターを使って、ぜひご自身の手で試してみてください。



授業のあと、自宅でも墨をすりました。ヘタでもそれっぽく見えるのが墨書の魅力。



4歳の娘も墨書にチャレンジ、自画像です。墨は色のびがよく、楽しそうでした。

(テキスト:ボランティアスタッフ 松本浄)