シブヤ大学

授業レポート

2017/1/13 UP

CIVIC GENERATION
〜いま、わたしたちは“市民主役の時代”に生きている〜

今回のレポートは、前半はボランティアスタッフによるレポート、後半は授業の書き起こしを掲載しております。

第一部「市民社会の歴史」を振り返る



まずは、“「市民社会の歴史」を振り返る”として、シブヤ大学をはじめとした全国各地の取り組みを“ソーシャル系大学”と名付けられた明治学院大学社会学部の坂口さんからアメリカを例にお話頂きました。

冒頭のアメリカの話は、そういう歴史があったという程度の認識しかありませんでしたが、成り立ちやその後の反動などを聞くと、「変えたい」という気持ちを持った当事者の存在を感じることが出来ました。ただ、富裕層が動くところについては、日本だと実感が無かったので、そういう視点でニュースや世の中の動きを見てみようと思いました。

次に、NPO法人ETIC. 代表理事の宮城さんからお話頂きました。

1993年当時の宮城さんは大学2年生で、バブル経済崩壊による本格的な不況を感じ始めた頃に、「社会で信じられていることと、自分達の感じる価値観にギャップを感じていた」なかで起業することで、そこを打破できるのではないかと思って、最初はいわゆる起業家の方を招いて、生き方を紹介するイベントをされていたそうです。

宮城さんの話をお聞きして、バブル経済崩壊のインパクトに改めて驚かせられました。崩壊後に直接影響を受けたお話は、最近のミレニアム世代と呼ばれる世代の持つ価値観にも通じるものがあるのかなと。ここ数年で価値観の多様性や新しい働き方についても、様々な意見が聞かれるようになってきていることとシンクロしたり、既に働いている身としても「ビジネスとソーシャルの境界」についても意識してみようと思いました。

(第一部レポート:ボランティアスタッフ 高橋正)

第二部:「市民活動の現場」から眺める


4人の「市民活動」の事例をお聞きしました。


平尾 順平さん(ひろしまジン大学 代表理事/学長)
バックパッカーで世界を旅した学生時代、その後の国際協力の仕事上でも「あのヒロシマからきたのか」と海外の方に言われる事が多く、知名度は高いが情報がアップデートされていないのに気付いたのをきっかけに、「被爆都市ヒロシマ」から「平和都市 広島」を自分たちで作って行きたいと思い、立ち上げたのだそうです。

「広島という場所で学ぶことよりも、広島を学ぶことを大事にしたい」というのが特色で、授業の参加料は無料(非収益部門)。スポンサードもほぼついていないので、授業以外のこともかなり多くやっており、行政や企業などから制作やマーケティングや調査研究、商品開発などを請負い、これらを授業と掛け合わせてやり、収益をあげている形をとっているのだそうです。(収益部門)

なるほど、ひろしまジン大学は、収益部門と非収益部門を完全にわけた運営になっており、これをやることで、授業に参加するだけではなくて「参画」して広島を盛り上げていく仲間づくりをしている、そのシブヤ大学との違いをとても興味深く感じました。

そして「最初からこの形ではなく…」という言葉が印象的でした。


塩山諒さん(NPO法人スマイルスタイル代表理事)
民間の職業安定所『ハローライフ』、高校生とつくる『いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)』など、既成概念にとらわれない「創造力」とセクターを越えた「つながり」で、この豊かなまちの格差や貧困問題解決に挑戦している方です。 

若い時から、自分が感じた「生き辛さ・働き辛さ」を変えるべく、「どうすれば国が変わるか」という強い想いをもって起業をしたそうです。 

とにかく想いがある方だと感じ、悩みながらも進み、大阪でどんどん会社規模を大きくし影響力を強めていく姿は、「クリエイティブな手法で社会を変える」という言葉をまさに体現されている方だと思いました。 


岡部友彦さん(コトラボ合同会社 代表
“ドヤ街”と呼ばれる横浜寿町にて地域資源を活用した活性化事業「ヨコハマホステルビレッジ」をはじめ、愛媛県松山市三津浜地区にて空き家バンクや、使われていない古民家のコミュニティアセット化を目指した活性化事業を行っている方です。 

テーマは、「ドヤ街は危ない」という昔の寿町イメージと、人情味あふれる今の寿町イメージをすり合わせること。「新しい人の流れをつくって地域のイメージを変えよう」と見よう見真似で始め、今はバックパッカーや若者、アーティスト達などがやってくる町になったそうです。 

そこから、仕事のないおじさんたちにも新しい雇用を生み、地域内外のコミュニケーションを生み、様々な人達をエンパワーしながら、どんどん拡大し色んな場所に広がっていくように。これらは前例がないものばかりなのだそう。このお話からは柔軟さの重要性を感じました。 


桑原静さん(シゴトラボ合同会社 代表)
100歳まで働ける、おばあちゃんたちの力を活用する工房『BABAラボ(ばばらぼ)』をさいたま市で運営。工房では、子連れ出勤の母親の参画も促し、多世代交流の場を提供し、高齢者のアイデアを活かしたサービスや「孫育てグッズ」というユニバーサルな商品づくりをしている方です。

そのノウハウを活かし、全国で高齢者の居場所作りにも着手。おばあちゃんたちを束ねながらの、ユニークでやわらかいアイデアが素敵な活動だなぁと感じました。 

現在の課題は、場所作りや商品づくりなどハードなものばかりに取り組んでいたので、形のないソフトなサービスに弱いこと。これからウェブメディアを始めるそうです。



ここまでお話を聞き、「事業開始からビジネスモデルの変化の面白さが面白いなぁ」と感じていましたが、収益事業と非収益事業(ミッションに関わる部分)の循環・バランスはやはり難しいそうです…。

自分のミッションで収益をあげるということに拘ってしまい苦労する。又は、非収益事業を回すための収益事業に注力しすぎてしまい、本来やりたい方が疎かに…と、バランスが崩れやすく、そういうところからの自分たちなりのバランスを模索しているようです。
成功しているようにみえるみなさんでもまだまだ結論がでてはいないようでした。

また、
「Q.他地域に展開する場合、モデルとして共通できることはなんでしょうか?反対にローカライズすべき部分はなんでしょうか?」
という、左京学長からの質問に対しては、
「ノウハウ提供はできるが、地域の問題は地域によって違うので、同じ物は絶対つくれない。地域の側から見て組み立てることが重要。」
との回答でした。

固有性と多様性は、これからの時代大切にすべきだと感じました。

第三部:トークセッション


最後に急遽、今回ご登壇いただいたみなさんのトークセッションが設けられました。

まず、第一部のお二人からの感想から。
坂口先生からは「10〜20年前は難しかった、対価をとってのプログラム提供は素晴らしいと思う」との言葉。ETICの宮城さんからは、「道なき道をつくってきて、食えてきたのがすごい」との言葉が贈られました。

事例を紹介してくださったみなさんからも、それぞれの思いのシェア。その後また、宮城さんと坂口先生からエールが贈られました。

・ソーシャル起業家が倍に増えるよりも、一人ひとりの心に火をつける方がよっぽどインパクトがある

・マインド的なパブリックへのコミットの方法が確立してきた

・「誰にでもできるような形で展開していきたい」というパブリックへのコミットの形もある

・10万人集まっても、1人の意思あるひとにはかなわない。真似できない。意思ある人は、自分の不本意な状況で自分がどれくらい意思をもてるか

・そのうえで最後は「ワクワク・好きなこと」をやるしかない、それが一番強い。

・今後10年を考えると、日本だけを考えてもダメ。そして、動ける人が減る中、今ある人達をどうやってうまく動かして行く力が重要。NPOセクターの力がますます必要になる。

意思があるなら、変化を恐れずチャレンジングに楽しむ!これですね。
それぞれの想いを感じる個性豊かな事例から、市民活動の新しい時代を感じる時間でした。

(第二部&三部レポート:ボランティアスタッフ 渡邉祥子)

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以下、この授業の書き起こしです。

第一部「市民社会の歴史」を振り返る

司会:伊藤 剛(シブヤ大学理事/asobot代表/GENERATION TIMES編集長)

司会:
今回は、シブヤ大学周辺の社会全般がどのように変化してきたかという歴史を、20年、25年ぐらいのスパンで見ていきます。

第1部では、俯瞰的、総論的に歴史を振り返ります。第2部は、現場で活動をしている団体の方たちと話をしていきます。そして今回は急遽第3部を設け、第1部と第2部で登壇する方たちにフリーディスカッションをしてもらいます。よろしくお願いします。

第1部に入ります。第1部は、坂口先生宮城さんにお越しいただきました。

坂口先生は明治学院大学の社会学の先生です。
シブヤ大学は、生涯学習研究の一環で取材をしていただいた所に縁があります。普段『ソトコト』等、メディアでも執筆をされていて、シブヤ大学の周辺の活動をソーシャル系大学と名付けてくれた人でもあります。

宮城さんは、NPO業界の中では草分け的存在であるETIC.で、中間支援団体的な立ち位置で日本全国の若者をずっと定点観測するかのように支援してきました。
学者の坂口先生とは違う切り口で歴史を振り返ってもらいたいと思っています。それでは、坂口先生、よろしくお願いします。

坂口:
こんにちは。坂口です。
普段、生涯学習論を大学で教えていて、行政が社会教育についてどんなことをしてきたかという歴史を話しています。今日はむしろ私の専門に近い市民社会論の政治思想のところに入りますが、本当に授業のような話をすると思います。

最初、私がどのように育ったかを紹介します。

1968年に生まれて、70年代に練馬で育ちました。
80年代に高校から大学へ行き、浮かれた大学時代を過ごしました。
第3世界ショップでボランティアをしていて、国際協力のボランティアをするのが大好きでした。
今日話したいのは、60年代、70年代、80年代、90年代というスパンで、市民社会の世界ではどのようなことが起こっていたのかという話です。

2つに分けました。
最初はアメリカを中心に話しますが、60年代は、1960年から1970年までのことではなく、アメリカの場合、社会学ではロングシックスティーズ、長い60年代といって、1960年から1979年ぐらいまでをいいます。
それ以降、新しい社会運動の登場があったので、その話をします。
先ほどの1980年ぐらいから2016年までの年表に載せると、それ以前の話なので、市民社会前史として聞いてください。


市民社会について、ここでは市民の力が政治と社会にインパクトを与える社会と定義します。
市民は誰かということになりますが、国家・市場から独立し、自立して、考えたり、行動したりする人です。
市民の力が政治や経済にインパクトを与える時代の始まりを求めるとしたら、それは公民権運動だと思います。
これは大きな抗議運動で、流血が伴うデモが繰り返された時代でした。

若い方は信じられないかもしれませんが、あの自由の国アメリカに、ジム・クロウ法というものがありました。
白人と黒人は同じレストランで食べてはいけませんでした。トイレも、バスの席も違いました。
それに対する大規模な抗議運動です。
マーティン・ルーサー・キングです。
ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ジョセフィン・ベーカーが、キング牧師と一緒になり、白人と黒人が腕を組んで大行進をして、20万人が「I have a dream」の講演を聞いたといわれています。
その翌年、ジム・クロウ法が廃止になります。
市民が政治・経済・社会にインパクトを与えた事例の1つです。

このとき裏で何が起こっていたのでしょうか。
市民社会の世界で1ついえることは、メンバーシップ型の結社が衰退していく時代だったということです。

YMCA、労働組合、地域のコミュニティーのような、顔の見える団体に参加することが衰退していきました。
それは分担の時代、政治の時代だったからです。
隣の人と同じように政治的な志向をシェアできないということがだんだん明らかになっていきました。
これはスコチポルが研究していますが、60年代は民主主義が衰退したという言い方をします。
牧歌的な50年代、60年代のアメリカ型の郊外のコミュニティーが、大きな抗議運動の中で衰退していきました。
分断の時代といわれています。

長い60年代が終わると、今度は新しい社会運動が出てきます。
これはアラン・トゥレーヌが言ったもので、女性の権利、労働者の権利、黒人の権利、公害を拒否する権利等、自分たちの権利を中心にして抗議活動をする新しい社会運動です。

一番大きなインパクトを持ったものがウーマンリブ、女性解放運動で、もう1つが環境主義です。
環境を守ろうという意識がこのころから出てきました。

市民社会に何が起こったかというと、顔の見える小さな団体ではなくて、同じような権利活動に関心のある人たちが手を挙げて、会費を払って、世の中を変えようとする大きな組織を作ろうとしていきました。
NPOも全国規模になっていきます。
特にウーマンリブは全米女性委員会という大きな組織をつくっていきます。
全国規模の団体が登場してきて、アドボカシー型の結社といわれたりします。
アドボカシーは政策提言・権利擁護などの意味を持ちます。

これはどのような変化をもたらしたでしょうか。

1つは、顔の見える関係ではなく、ほんの少しの会費で会員誌をもらうことができるタイプのメンバーシップを提供する団体になりました。

この時期、PACという政治活動団体の結成が1974年に許されます。
例えばヒラリーは、ジョージ・ソロスが7,000万ドルを寄付してPACをつくっていて、それに対してトランプは自己資金でやっていることが話題になっています。お金持ちの人が支援する団体をつくることが可能で、市民団体に大きなお金が流れ込むようになります。
1人は5ドルでも、会員が何万人も居ると、ものすごい規模になります。
アメリカでは市民団体の活動が非常に大げさなものになり、政策を実現するために政治家を抱き込むようなことを恥じらいもなくやっています。
その結果、市民社会がやや批判される局面に陥りました。
スコチポルは民主主義が失われたと言っています。
政治学者ロバート・パットナムは、著書『Bowling Alone』で、環境の団体に所属していても、近所に一緒にボウリングに行く友だちも居ないではないかと言っています。

80年代までの間に市民活動がとても盛り上がり、大きな規模になりました。
実際に政策を動かすようになった反面、団体、あるいは、市民活動のコミュニティーという点では、非常に孤立したものに変わっていきました。

90年代、冷戦が終わり、世の中はがらりと変わりました。
大きな団体や国家ではなく、孤立した個人でもなく、その間にある小さな団体・中間団体をもう一度信頼しようという流れが出てきます。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、これ以降、世界が一体化していく流れが出てきました。
チェンジメーカーという単語が出てきたのもこのころです。NGO、NPOの注目がこのころです。

哲学者ハーバーマスが公共性の構造転換という言い方をしています。
東欧革命は市民が推し進めた革命です。
これはアメリカ、ヨーロッパ、日本にも非常に大きなインパクトを持ちました。
信頼できるのは国家だけではなく、独立した中間支援団体・中間集団が社会を変えていくことを見つけ出してきた時代です。

社会的起業という単語が出てきたのは2000年ぐらいです。
この言葉がきっかけになったのは、ノーベル平和賞をムハマド・ユヌスが取ったこともありますが、ベルリンの壁が崩壊した89年以降、チェンジメーカー、社会的起業、すなわち社会問題をクリエイティブに解決する手法、それも心の冷たい専門家ではなく、ウオームハートを持った実務家、素人ではないけれども、弁護士・医師といった専門職でもない実務家、プラクティショナーで、その課題にいち早く気付いた人が立ち上がって、その人ができる範囲で問題を解決していくタイプの働き方が、これ以降可能になっていくことがあります。

もちろんこの時期、倫理的投資や、新しい金融業務などが出てきたことも大きいと思いますが、社会的起業の考え方自体が、グローバリゼーションによって可能になった、あるいは、新しい社会課題に気付く人たちが声を挙げやすい状況ができていったといえると思います。

日本の場合はどうでしょうか。

日本は、よく欧米の何十年遅れだとか、アメリカではすでにやっていると言われがちですが、90年代の市民社会の状況に関しては、私はグローバリゼーションの変化と同時進行していたと理解しています。
実際に95年のボランティア元年と言われた阪神淡路大震災のきっかけも大きいのですが、このときに立ち上がった団体が、90年代に欧米で行われていた手法を、いち早く取り入れることが実際に行われました。

98年にNPO法ができたことも非常に大きいのですが、このときにNPO法が本当に活用されたのは、かつての大きな環境主義の団体、助成金誘導の団体のように、会費を少しずつ集めて、大きな活動をして、政策を起こそうというものではなく、むしろ1つのイシューに対して仲間を集めて解決していこうという情熱を持つ人たちのグループをつくるときに、NPO法が活用されたということが大きいです。

出来たてのときはものすごく批判を受けました。
日本は寄付文化がまだないので、NPOをつくっても本当にいいのかとか、つくっても消えていくNPOのほうが多いのではないかという議論が、90年代の後半にありました。
実際に活動している人たちの現場に行って話を聞くと、3人でもNPOをつくることの意味を本当に分かってやっている人がたいへん多くて、その人たちは今もサバイブしています。
そういう人たちが、おそらく2000年代にシビックジェネレーションを形成してきたのだと思います。

ここからはスケッチのような話で、実際にどのようなことが起こったかは、後でETIC.の宮城さんに話を聞きたいと思います。
『ソトコト』で「ソーシャル系大学案内」というコラムをふた月に1回書いているので、『ソトコト』がどのような特集をしてきたのかというものを集めてきました。10年間に起こったことを、皆さんと共有できればいいと思います。

例えばスローライフという特集をしています。
『ソトコト』という雑誌は1999年に創刊されて、最初はビジネス寄り、男性向けの雑誌でしたが、2000年ぐらいからロハスを打ち出して、変わってきました。最初に注目したのがスローライフだったようです。
そして、地域通貨、オルタナティブな経済ということも、好んでやっていました。

その次に、地方自治法の改正です。
これはNPO・民間企業が行政の施設を運営可能になるという地方自治法の改正があったことです。
食育基本法もスローライフの流れでできたものだと思います。『ソトコト』でも触れていました。

2006年ぐらいからNPO特集を連続して行っています。
2009年にエコツーリズム、2010年にIターン・Uターンがあります。
東日本大震災前にIターン・Uターンを、特に過疎に悩む自治体がキャンペーンを張るようになったことがポイントです。
実際に人が動きだしたのは、もちろん震災の後です。
2011年、2012年ぐらいにローカルの特集が大好きだったようです。
そして、2013年にソーシャル系大学案内の特集を出してもらいました。
シェアエコノミーもこのころに出てきたものです。
そして、2015年あたりの1~2年は、地方で起業です。
今一番熱いのはゲストハウスですが、前から横浜などで行われていることは、後で伺えると思います。

この10年の間に行われてきたことを俯瞰してみると、おそらく社会課題に気付いた人たちが集まって、その人たちが専門家の立場から政策提言をするのではなく、自分たちの手で解決するために、仲間を集めたり、自分が知識を付けたりする活動をしてきたと思います。
それは20代、30代、40代、50代、60代、どの世代もそうです。
もちろん20代、30代の人が、このような最初のプラクティスに参加するのは、おそらく日本の社会では今までないことだったと思います。
それを可能にするために、ETIC.やシブヤ大学のような支援する団体が出てきて、小さなグループで社会課題に向かう土壌が整えられてきたと考えています。
ETIC.の設立は1993年ですので、この時代の変化をよく見てきたと思います。
シブヤ大学の設立は2006年です。
これからの10年を担う人材を着々と育てる団体が出てきたのが90年代だったと思っています。

司会:
ありがとうございます。
通常だと半年ぐらいかけて講義することを、20分ぐらいでまとめてくださってありがとうございます。
僕もこの業界の日本での1つのベンチマークは1995年の阪神淡路大震災と思っているのですが、あらためて思うと、ETIC.はその前に入るわけです。

それを含めて、宮城さんも、坂口先生のお話を聞いて、あらためてETIC.の23年を振り返りつつ、コメントをいただいてもよろしいでしょうか。

宮城:
あらためまして、10周年おめでとうございます。
私もシブヤを愛する者の1人として、17年仕事をしていますので、シブヤ大学が10周年を迎えられたことは、本当に個人的に素晴らしいことだと思っています。

ETIC.は、90年代はITベンチャーのスタートアップを応援していました。もともとETIC.が1993年にスタートしたときは、自分で事業を起こすことを、若者が自分の将来の仕事として考えるという選択肢はまったくなかったのです。
卒業したら起業家になるとか、ベンチャーに就職するとかいうことは、まったく誰も考えなかった時代でした。

司会:
1993年は、世の中でバブルが終わるか、終わらないかぐらいのところですね。

宮城:
ちょうどバブルが終わって就職氷河期でした。
先生の時代は浮かれた学生時代が送れた、バブルの最後の爛熟期だったと思いますが、私が大学に入った1991年は、まさに終わった直後で、4年生の先輩と自分たちは天国と地獄みたいでした。
4年生の先輩はサークルをやっていたら、当時カード会社が学生にお金を配っていたような時代でしたので、イベントサークルの合宿費などは全部企業が出してくれていました。協賛金がいくらでも集まりました。
それが一気にまったく出なくなり、みんなアルバイトでお金を稼いでイベントをやったぐらい差がありました。

私は1972年生まれで、いわゆる団塊ジュニアの、最も人口が多い世代なのです。
自分が幼稚園ぐらいのときにカラーテレビがほぼ100パーセント普及しました。
カラーテレビの普及はとても早くて、3年ぐらいで一気に普及しました。
要するに生まれたときから物質的にはとても恵まれた環境の中で育った、ある意味一番上の世代だと思っています。

つまり、価値観が変わろうとしている時代に生まれたと思っています。
社会で信じられていることや、通用しているものさしと、自分たちの価値観にギャップがある気がして、そのギャップを実際に表現する機会がないということをずっと思っていました。

起業することは、しがらみを突き破るような、閉塞感を壊していく1つのインパクトがあるのではないかと思い、大学時代にこの仕事を始めました。

司会:
大学何年生のときですか。

宮城:
大学2年生の終わりぐらいです。

司会:
そのときにETIC.を始めたのですか。まさに当時は起業家ですね。

宮城:
自分自身が起業することは全然考えていませんでした。
先ほど定点観測と言われましたが、どちらかというと観察者であり、強いて言えば教育者的な人間だと思っています。
自分で起業するというよりは、起業する生き方があることを周りに伝えたかったという思いで、大学のキャンパスに起業家を呼んできて話をしてもらうという、まさにシブヤ大学的なことを大学の中でやっていました。

なぜシブヤ大学に共感するかという話に戻れば、90年代にITベンチャーを応援し、2000年以降は社会起業家といわれる人たちのスタートアップを応援して、そういう意味で、私の仕事はマッチョな起業家とか、ハードコアな社会起業家を応援してきた面もあるのですが、どちらかというと、シブヤ大学的な、まちがキャンパスになるとか、市民一人一人が自分の人生や社会の主役になるという概念のほうが、本当はしっくりくるのです。

結果的に私なりの表現方法が、起業家という生き方に象徴される形だったと思っています。

司会:
ETIC.の始まりの事業形態は、インターンシップというキーワードが創業当時は重要だったと思います。
今われわれはインターンシップが当たり前の言葉で、今の学生にとっては本当に就職活動の1つになっていますが、当時のインターンシップはどういうニュアンスでしたか。

宮城:
当時インターンといえば、医者のインターンとか、先生になる人の実習とか、理系の大学院の工場実習とか、そういう形はありましたが、普通に自分の将来のキャリアのために仕事の経験をするという概念はほとんどなかったです。
自分の中では、当時イベントや勉強会をやっていて、すごく成長する人が出てくるのですが、座学で話を聞くだけではなかなか変わらないというジレンマを感じていました。

そのときに、起業家の下で修行をしていた人が、すごく見違えるぐらいに精悍な顔つきになって、きらきらしている人が居るのを見ました。
起業するのは簡単ではないです。
誰もができるわけでもないし、する必要もないと思うのですが、インターンシップという形を通して、起業家的な経験を自分としては提供したかったのです。

要するにハードルを低くして、自分で意思決定をして、好きなことにチャレンジすることを、学生時代に提供する仕組みとしてできないかと思って始めたのが、インターンシップでした。今はある程度その選択肢が学生の1つの可能性として考えるものになってきました。

司会:
なるほど。
ただ、僕がまったく想像がつかないのは、そのような新しい考え方をどのように周囲に伝えていったのかということです。
宮城さんの学生時代は、いきなり4年生と自分たちとの間に相当の価値観の溝があって、バブル当時というのは、札束をかざして道端でタクシーを止めるような時代ですよね。
そのようなとんでもなく派手な社会から、一気に世の中がふけ込みました。
日本の戦後の長い歴史でいえば、基本的にはバブルがはじけるまでずっと右肩上がりだったものが突然終わってしまった状況です。
現在、私たちはいろいろな「言葉」を持っています。
例えば「ソーシャルデザイン」「コミュニティデザイン」といった言葉を持つことで、分かりづらい活動を説明できる武器が増えたと思います。
でも、当時は「NPO」という概念もないとなると、自分の同級生に、起業する道もあることを、どのようなコミュニケーションで周知して説明するのかが想像がつかないのです。

宮城:
2つのアプローチがあります。
1つは、当時でもとがった人たちは居たので、ストレートに「起業」と言って、来る人が何人か居たわけです。
逆に言えば、とがったメッセージを出せば、少数の出会いたい人に出会えたという面もありました。
そこで反応してくるのはかなり変な人で、本当のアーリーアダプター(※出来事の始めの時期に行動する人)です。
そうではなく、私の考え方として、かなり裾野広く、本当はこういう生き方やメッセージに対して共感する人が増えているはずだと思ったので、潜在的な意識を持った人たちにどうアプローチするかということが大事なテーマでした。

その1つが「インターンシップ」であり、当時で言えば、これまでの偏差値で選ぶような就職活動は違うと思わないかというメッセージを1994年によく発信していました。
『就職ちょっと待ったシンポジウム』という伝統的なイベントがありました。
『ねるとん』で、「ちょっと待った!」というフレーズがとてもはやった時代がありまして、そこから取ったネーミングです。
若い人にはわからないと思いますが(笑)。
要するに、今までの就職活動はちょっと違うのではないかと思った人は来いということで集めたら、当時で一番とがった人たちが来たのです。
そういう人たちの中で話をして、起業する人が出てきたのが、1994~1995年の出来事でした。

司会:
ちょっと待ったで来る、とがった人というのは、先ほどの話の前者ですか。

宮城:
一般的な層の中でアンテナを張っている人たちです。
変な人は個別に誘うとか、口コミとかで来ました。

司会:
とがった人たちというのは、当時で言うと、「何」に対して対抗意識のあった人たちだったのでしょうか。
すべてがカウンター的な態度というわけではないと思いますが、そういう人たちのどんな気持ちに火をつけたのですか。
例えば今で言うと、「人生は経済だけではない」とか「幸せの価値観は他にもある」というような価値観が響くと思います。
当時は豊かさにどっぷり漬かりながら生きてきて、バブルが変だと思っても、それを否定するまではいかないと思うのですが、当時の若者は何に一番心が動いたのですか。

宮城:
そういう意味では、カウンターがないというのが、難しさであり、特徴でもあったと思います。
80年代までは、学生運動もそうですが、カウンターがあって、敵が分かりやすかったのです。
ある種、敵をつくりながら、その敵と戦うことで自己満足できた面もありました。

あるいは、大手に入って出世することも、敵ではないのですが、みんなが共通して納得している成功の形で、それを追い求めていれば、自分も幸せだったし、社会的にも価値があったわけです。
高度経済成長も含めて、欧米に追い付け、追い越せみたいなことが、非常に社会的でもあったという時代が続いたので、分かりやすかったわけです。

90年代以降、われわれの世代以降の人たちは、拳を振り上げようにも、強い権力もなく、どこに振り上げていいか分からない、どこに自分の情熱を傾けていいのか分からない、そういう時代だと思います。
その中で、変だと思いながらも、過去の慣習に従って就職活動をして、大企業の狭き門に並んでいたのが90年代の流れだと思います。

司会:
宮城さんがもやもやのまま会話していると、変な人たちが集まってきたという感じだったのですか。

宮城:
彼らからすれば、他に光がなかったので、面白そうだと思って来てくれたのだと思います。

司会:
そういうところから始まったETIC.が、この20年間、若者と常にコミュニケーションをとってきたと思います。
宮城さん側が投げかける言葉の変化を含めて、若者がどのように変わってきましたか。

宮城:
坂口先生の話を伺って、とても勉強になりました。
本当に大学に来たような感じで聞いていました。
例えばアメリカの市民社会の流れを見ていくと、順を追ってある種の成熟なり、進化なりをしてきたと、あらためて思いました。
日本は別の形の流れを遂げてきたと思っています。
遅れているともいえますが、違うという言い方もできると思うのです。

例えば社会起業家の概念を、私が地域の中小企業の経営者の方に話すと、怒られるわけです。
なぜかというと、そもそも日本の地域の中小企業の経営者は、結構社会のために働いているのです。
そうではない人も居ますが、地域の中で自分の役割を果たすことが当たり前だと思っているのです。

日本は長寿企業が多いといわれています。100年、200年続く会社が世界一多い国だといわれています。
それは一獲千金、一人勝ちの世界で、そういう人はリスペクトもされませんが、自分の分を守りつつ、コミュニティーの中で自分の役割を果たしていくことに対して、とても魂を込められる人たちがベースとして居て、江戸時代はそれが普通だったわけです。
明治維新以降、特殊な時代がやってきて、富国強兵とか、欧米に追い付け、追い越せという中で、日本人の価値観の中では、いびつな時代が来たのではないかと、きょう坂口先生の話を伺ってあらためて思いました。

90年代は失われた10年といわれます。
ポジティブに捉えると、バブルが崩壊して、われに返る変化の準備をしていた時期なのかなという気がします。
社会起業家という概念や、市民が主役という感じ、フェアに人が生きていて、その中でみんながお互い助け合い、市民が何かをシェアしながら、社会が進化することは、ごくベースとして当たり前にあった価値観なのではないかと思います。
それがいろいろな変遷を経つつ、2000年代になって、日本であらためて回帰しつつ、進化をしようとしているとも捉えられると思っています。

司会:
まさに三方よし、ウィンウィンウィンのようなものが、DNA的にもともと日本の社会基盤としてあったということですね。

宮城:
こういうメッセージを発信していて、90年代にベンチャーの話をしていたときは、自分の中でベンチャーを応援することは方便的な感覚がありました。
刺激を与えたかったというか、みんながベンチャーを起こす必要もないのですが、その存在が、しがらみを破って、閉塞を突破するインパクトになると思っていました。
一方で、社会起業家、ソーシャルビジネスという概念は、多くの人が当事者になり得るし、主役になれるのです。
自分で起業することはもちろんですが、ソーシャルビジネスにプロボノとして参画することも、自分の意思決定で、自分のオーナーシップで、そこに参画しているという意味では主役だと思います。
ベンチャーだと、トップの起業家が主役で、それ以外の人はある意味脇役です。
こちらのメッセージのほうが、少なくとも日本でいえば、すごく共感をいただく裾野が広いと感じます。

司会:
たしかにそうかもしれませんね。坂口先生は、今の宮城さんのお話を受けて何か質問したいことはありますか。

坂口:
1つだけ質問します。
ETIC.は継続して学生を支援していると思います。
学生は何者でもない人たちで、世間からも、特にバブルの時期までは、ろくでもない人たちで、余暇を楽しみに行っているといわれていました。
そんな学生たちに期待して送り出して、また迎えて、鍛え直して社会に出すということをやっていると思います。
就職して3年目ぐらいの人を集めるとか、そういうことも今はやっていると思いますが、学生をメーンに何かしようと思ったのはどういう理由があったのですか。

宮城:
1つは、教育者的なおせっかいな感じが自分の中にあって、社会に出る前の教育システムそのものが変わるべきではないかという問題意識が強かったことがあると思います。

一方で、まさに何者でもない存在が持っているインパクトがあると思います。
学生もそうですし、場合によってはシニアの方とか、女性という存在もそうかもしれません。
何者でもないからこそ、新たなことに挑めるとか、チャレンジするハードルが低いとか、自分が大事だと思うこと、好きだと思うことに対して、打ち込めることがあると思うのです。

インターンシップで企業に学生を紹介していて、われわれはウィンウィンということを大事にしています。
企業の皆さんが喜んでくれるのは、もちろん一緒に新規事業を立ち上げることや、特にITを使った分野だと学生に能力があることですが、ピュアにこの経験がしたいとか、この仕事がしたいと思って入ってくる異分子が居ることが、企業に対して新たな気付きとか、情熱を思い起こされてくれる新鮮さがあるというのです。

われわれは、学生はある意味メンターだという見方もしています。
自分でこの仕事をしたいという目的意識や情熱を持った存在が、企業の中に異分子として入っていくことで、企業に新たなスイッチが入る機会になるというパワーがあると思っています。
社会の進化と、学生に対する教育が、うまく循環していく流れをつくりたかったことがあります。

司会:
ETIC.がインターンシップから始まり、ITベンチャーを育て、2000年代途中から社会起業家を育て、311では被災地にいろいろな起業家の人を送ってサポートをするということがあったと思います。
最後に、ここ1~2年のETIC.の活動を教えていただいてもいいですか。

宮城:
先ほどの『ソトコト』の特集を見ていて、とてもシンクロしていると思いました。地域で仕事をするという流れは、日本でいえば、2011年の311以降、とても加速的に変わったと思います。
うちの中でも地域で起業するプラットフォームは今後より力を入れていこうとしています。

あとは、ビジネスとソーシャルが非常に融合してきていることを感じていて、われわれもそれを加速させたいと思っています。
社会課題解決をETIC.の中ではあまり声高には言っていません。
どちらかというと、自分が大事だと思うこと、好きなことに打ち込む先に、新たな社会がつくられていくという側に立ち、そのパワーを大事にしています。
その結果、社会の課題が解決されていくのですが、課題解決というアプローチよりは、自分の好きな生き方に向き合うとか、それを一緒につくり上げていくことです。

従来ならビジネスとして起業していた人がNPOをやる場合もあるし、NPOをやろうとしてスタートした人が、途中で、ビジネスでやれば社会が変わるとか、面白いことができると気付くこともあります。
そこがうまく融合していくような場面を増やそうとしています。

特にテクノロジーの領域とソーシャルの領域は親和性がいいです。
そこをつなげていくことを最近大事にしています。

司会:
まさに課題解決より、価値の創造、クリエイティビティーに掛け合わせていくことですね。
また第3部で登壇をしていただきます。
第1部としてはここでいったん終わりにしたいと思います。
坂口先生、宮城さん、ありがとうございました。

(第一部 終了)


第2部「市民活動の現場」から眺める 
司会:左京泰明(シブヤ大学 学長)

司会:
第1部は、宮城さんと坂口先生の話でした。
われわれのようにソーシャル分野で活動する人々が、日本のどのような背景と潮流の中で今に至ったかを、少し引いた視点から時系列を遡りました。

第2部は、そのような社会環境の中で、この10年間、各分野、各地域で素晴らしい活動をしてきた方々を招きました。
現場の視点、レベルでそれぞれの活動がどのように変化していったか、あるいは、それらを取り巻く地域社会環境はどのように変化してきたかを伺います。

今日は4名の方をお迎えしました。
シブヤ大学の姉妹校の中から、ひろしまジン大学の学長、平尾さん
大阪で活動している、NPO法人スマイルスタイル代表理事の塩山さん
横浜寿町でホステル事業からスタートされました岡部さん
現在は埼玉を中心に活動している、BABAラボ、シゴトラボ合同会社代表の桑原さん
それぞれの活動の話の後に、共通の質問などで対話をしていきたいと思います。

特に、この10年間の中でどのように活動が変化してきたか、あるいは取り巻く環境が変化したかを含めて話を伺います。
最初に、平尾さんからお願いします。

平尾:
ひろしまジン大学は、2010年に開講した、シブヤ大学の4番目の姉妹校です。場所は広島です。
今回、私たちひろしまジン大学の活動を紹介させていただきますが、姉妹校のあり方は、法人格も含めてバラバラです。これが姉妹校の代表例ではありません。
私が昨日からたまたま東京にいたためにここにいるという事情もあるので、これが全姉妹校を表すものとしてではなく、1つの事例として見てください。

私たちは、今年で7年目に入りました。
今、学生数が2,500名強です。20~30代、40代で全体の90パーセントを占めています。
ほかの姉妹校も、割合は近いと思います。

立ち上げた経緯はそれぞれの姉妹校で違います。
各代表がいろいろな思いで立ち上げています。
私自身は広島の生まれ育ちで、学生時代にバックパッカーで世界を旅していろいろな国を回りました。
そのつながりで、大学卒業後に国際協力の業界で8年ほど働きました。
50カ国ぐらいの国に、旅や仕事で行きました。

私自身は広島の人間として、海外において「どこから来たの?」と聞かれたら「広島です」と答えます。
すると、大体、「あのヒロシマから来たのか」と言われました。
彼らがイメージしている「あのヒロシマ」は、このイメージです。
今から71年前の絵を彼らが想像していることは、何となく分かりました。
「草木が生えていないんじゃないか」「そもそもどうしておまえは来られるんだ」と言われました。

知名度は高いものの、まったくアップデートされていない当時のままの広島が彼らには強烈に残っているんだと思ったときに、被爆都市ヒロシマだけではなく、平和都市ヒロシマを私自身がつくっていきたいと強く思いました。
広島をアップデートさせたい、何とか自分たちの街を知ることができないかと思っているときに、シブヤ大学というモデルに出会ったのが最初の経緯でした。

姉妹校はいろいろな思いを持ってやっています。
私が大切にしているのは、広島という場所で学ぶことよりも、広島を学ぶことを大事にしたい、ということです。
ですので、この場所でいろいろなテーマを学ぶというよりは、地域を意識した授業づくりをしていきたいというのが、ひろしまジン大学の特色です。

今まで約300の授業をやってきました。
例えば、先日、広島にオバマ大統領が来たときには、報道ではいろいろなことが言われているけれど、実際に市民はどう感じているかを一緒に考えて話し合ってみようという企画を行いました。

街歩きも、できるだけ地域を題材に、広島の中の自然やお店を選びます。
社会科見学として地元企業訪問シリーズというものをやっています。

実は世界で活躍している地元企業がたくさんあります。
この授業をきっかけに、もっと地域のことを知り、地域をプライドにできればいいと思います。
そこに地域が見えてくる授業づくりを常に意識しています。

シブヤ大学はいろいろな授業をしながら収益を上げていますが、ひろしまジン大学は授業以外の部分での収入がかなり大きいです。これが1つの特色だと思います。
授業自体にはスポンサーがほとんどついておらず、ホームページに出ている授業はほぼ自前です。
ここはほぼ「非収益部門」と位置付けています。

収益部門は、行政や企業からの委託事業が多いです。
ものづくり、マーケティング、調査研究、商品開発などを授業と掛け合わせています。
右側だけ行うとコンサルタントの仕事ですが、私たちは、さらに実働部隊としても動いています。
学びの場所と掛け合わせることで1つの収益モデルをつくっています。

当初は、シブヤ大学と同じように左側で収益を上げようと思っていましたが、支店が多い広島という地方においては難しく、新しいかたちをつくりました。
この6年間の中でやっと見えてきたかたちなので、最初からこれでスタートしたわけではありません。
こちらが大学とすると、こちらはまちづくり研究所というふうに呼んでいて、収益部門として分けて考えています。

基本的に、学び(大学)の部分でスタッフとして関わる人達が、こちら(研究所)でも一緒に動いています。
仕事が入ると、普段動いているメンバーたちが『オーシャンズ11』のようにガッと集まって、仕事が終わると解散するということを繰り返しながらやっています。
大体、今は、2,500~2,600万ぐらいの収益を上げる団体です。

これは1つの事例です。
福祉など、地域を掘り起こすことが行政の地域観光計画にも役立つので、そのような分野での行政計画を行います。各ワークショップを回すだけでなく最後の執筆までやることで、1つのパッケージングとしています。

公共建物の活用もします。
旧日本銀行広島支店という被爆建物があるのですが、指定管理ではなく、中のコンテンツをどうつくっていくか、4年ほど取り組んでいます。
このようなことを市から請け負っています。
これは独自事業で、私たちの収入は出展料だけです。

広島には、多様な都市と自然があります。
その中で、出会う人の顔が見えるマーケットを積極的につくっていこうとしています。
ここ3年ぐらい、広島を訪れる外国人が年々増えています。
その玄関口は広島駅で、9割がここから入ってきます。

外国人と広島人双方にとって接点になるような場をつくることで、広島の国際化を図りつつおもてなしをしていく、Hello! Hiroshima Projectを展開しています。
独自に300名が参加しています。これはこれで1つの可能性ではないかと思います。

ほかにも、冊子やパンフレットの制作もしています。
マスメディアとして、ラジオ番組を作ったりもしています。

私たちは授業を通して何がしたいのかということを、このタイミングで改めて考えてみました。
ひろしまジン大学という組織図を、このような逆三角形で表しました。

一番上からどんどん降りてくるかたちでコミットが高まると思ってください。
シブヤ大学と同じように、生徒がいて、手伝ってくれるスタッフがいて、授業をつくるコーディネーターがいるというところは変わりません。
ただ、これを上から関与度で見た場合に、学生になってくださいと言うだけではなく、いかに関わってもらうかが重要です。
「参加」するだけではなくて、一緒になって「参画」してくれる人がつくれるかどうかということです。

結論から言うと、私たちは、学びの場を使って一緒に動く仲間をつくっているんだなと思います。
1つ1つのステップをどのように越えてもらうか、関与を深めてもらうかが、今後の課題になります。

これからは4つ目、5つ目の柱として、人材育成が必要です。
ひろしまジン大学は大学と呼んでいますが、その中に人材育成部門を置き、地域におけるコーディネーションやプロデュースができる人たちと一緒に自分たちも成長していくことを、次の展開として考えています。

ひろしまジン大学は生涯学習の場ではありますが、学びの場というのはあくまできっかけや口実です。
その先にあるのは、一緒にこの広島を主体的に捉えていける仲間づくりです。

司会:
続いて、塩山さんにお願いします。

塩山:
大阪から来ました、NPOスマイルスタイルの塩山です。
第1部の話に非常に刺激を受けました。
坂口先生と宮城先生の話に、自分自身の時代観を振り返りました。

僕は、1984年に兵庫県の尼崎市に生まれ育ちました。
小学校3年生の9歳、10歳ぐらいで登校拒否になりました。
僕らの地域では、すごく優秀な子は灘中、灘高、京大か東大というコースがありました。当時はまだ不登校という言葉もありませんでしたが、「塩ちゃんは裏のエリートコースだね」と言われました。
「登校拒否、引きこもり、ホームレス、ニートで、このままいくと将来絶望だよ」と言われて驚きました。
先ほど黒人の話がありましたけれども、普通のレールから外れると、結構、生きづらいです。

9~18歳ぐらいまで、学校にはまったく行きませんでした。学
歴が何もないと、アルバイトでどれだけ頑張っても、なかなか上のキャリアにいけないという葛藤があります。
15~17歳のときはフリーターというかたちで仕事をしていましたが、本当に心なき人材派遣会社もたくさんありました。
僕は、その派遣会社で頑張って務めているうちにリーダーになり、アルバイトの子たちの面接官をするようになりました。
ところが、たくさんの若い子たちの夢を聞きながらも、会社側の都合だけを考えて毎日派遣を繰り返していくことに、夢も何もありませんでした。
ずっと、もんもんとする思いがありました。

そのころ、不登校という言葉がクローズアップされつつありました。
僕が18歳ぐらいのとき、13万人ぐらい不登校者がいたそうです。
僕と同じ違和感を持っている人がいるのではないかと思って、全国のフリースクールや児童養護施設を回るようになり、たくさんいることが分かりました。

考察しながら社会運動をしていきました。
そういう生きづらさを抱えている人たちが自分の権利を主張して、不登校、引きこもりであってもちゃんと教育を受けるための予算を付けていこうという、親の会がありました。
僕も一緒に署名運動をして、国に陳情を持っていきました。
けれど、国も政治もなかなか変わりません。

思いが伝わらない中で、政治家の鞄持ちをしたり、インターンシップというかたちで大手の代理店さんやシンクタンクに行ったりして、どうすれば国を攻略できるのか、どうすれば伝わるのかということを、18~22歳の4年間で考えていました。

2006年、僕が21歳のときに、シブヤ大学創設者の長谷部健さんにお会いして、シブヤ大学ができるよと聞かされました。
そのとき、僕はインターンシップで、まさに全国を転々としていた時代でした。
いわば自分事、そういった問題意識をどうすれば人に伝えることができるのか、国を動かしていけるのかということを考えて動いているときに、長谷部さんのように飄々と企業をたくさん動かしたり、シブヤ大学のような伝え方をしていると知り、非常に感銘を受けました。コミュニケーションやクリエイティブな手法に関して、本当に衝撃を受けました。

それで、スマイルスタイルの起業をする前、2007年にアソボットの伊藤さんに長文のメールを送りました。
怪しまれて、「おまえは何者だ」と言われながらお会いした記憶があります。

当時、edgeという関西ソーシャルビジネスのプランコンペがありました。
事業としては何も成立していなかったので、思いしかプレゼンしていませんでした。
起業したときには、社会や世界や日本を変えると、大きなことしか言っていませんでした。

けれどももちろん、さっき言ったようなルーツがあります。
自分自身、学校に行っていなかったり、働く中でつらい思いをした時期も多かったので、そのもやもやした気持ち、葛藤した気持ちがたくさんありました。
だからこそ、根源的に社会を変えたいという思いは強いです。

強いけれども、売れない芸人みたいなものです。
起業しても思いしかなく、社会に対する共通言語がありません。
大阪の企業や行政にどれだけの思いを伝えても、じゃああなたは実績があるんですかとか、あなたはどういった仕事ができるのかというニーズに応える力をまったく持っていませんでした。
どれだけ思いを発信しても、言語力も知見もなかったので、2年間ぐらいは毎日ペペロンチーノを食べていました。

3年ぐらい頑張ると、世の中の構造が分かってきました。
ギブアンドテイク、持ちつ持たれつということです。
NPOで起業して、何でもノーとは言わずがむしゃらに取り組みました。

最初は地域の清掃活動からスタートしました。
オールナイトで若者を200人集めてゴミ拾いをしました。
それが大阪ではドラマ化され、テレビにどんどん報道されていきました。

そうすると、大企業や行政や広告代理店が、おまえらに仕事を発注したら若い子が集まるのか、おまえらとやったら何かできるんじゃないかという打算を持って、たくさん来てくれました。

そこで、打ち返していく企画を考えたり、じゃあこうしましょう、ああしましょうと、はったりを飛ばしました。
はったりを飛ばすと、もちろんそれを実現しなければいけません。
スキルや実績がないことを言い訳にはできません。
Googleで、どうやってイベントをやっていくのか、どうやってプロモーションをするのか調べました。
上司もいないしノウハウもありませんでした。
けれども、そういったことをしっかりとインプットし、アウトプットすることを繰り返していくうちに、2010年ごろにご飯が食べられるようになりました。

2011年度に、大阪府の事業で、大阪ニート100人会議がありました。
大阪府は、日本で一番、生活保護受給者が多い地域です。
大阪府の財政規模は3兆円ですが、約20パーセントの6,000億強を生活保護に使っています。
加えて、働いていない、または非正規の若者が15歳から34歳で76万人ぐらいいます。
150万人中の76万人なので、半数以上が非正規雇用です。
平均所得は186万円と、非常に厳しい状況です。

そのような中で、労働需要と供給の調整機能になる行政としてどのような施策を打てばいいのか、しっかりと若者の声を集約し、反映してやっていこうという目的がありました。
すると、ハローワークが負のオーラがする、ハローワークに行ったら説教されるという、行政機関に対する声も多くありました。
それらは、すぐには反映できない内容も多いです。
けれども、行政とのパートナーシップを保ちつつ、行政にできないことは自分たちで寄付を集めたり、クラウドファンディングでお金を集めたりして進めていきました。

これは、2013年度に大阪につくった民間のハローワークです。
大阪の中心である靭公園の前にあります。

ハローライフ

1階はブックカフェになっています。
2階はワークスポートブースで、職業紹介や相談支援などのサービスが受けられます。
ウェブサイトでも求人情報を紹介しています。
3階にはイベントスペースやギャラリースペースがあり、仕事にまつわるイベントが行われます。
4階には展示があります。
また、ファクトリーやキッチンがあるので、中間的就労というかたちでいろいろな製造現場の職業訓練もしています。
これは、おはぎバーガーというものを作っています。

大阪ニート100人会議は3年間行いました。
若者100名掛ける3回です。
さらに、企業の方や民生委員、地域の人々も集め、意見集約をして就労モデルをつくっていきました。
USJや千房といった企業を巻き込んでいきました。
関西では多くのテレビや新聞に取り上げられました。

今、ハローライフは年間1億円程度の予算規模でやっています。
約半分が、新しい就労モデルの開発として、大阪府から受けている委託費用です。
残り半分が、中小企業400社ぐらいから、企業ブランディングやコンテンツ開発として受けている委託費用です。
また、大阪マラソンの寄付金もあります。
1階のカフェの売り上げも年間1,000万ほどです。
そのような収入があります。
特異な例は、日本センチュリー交響楽団というオーケストラのコンテンツ開発です。
音楽活動を通した就労支援、就職支援の事業もやっています。

長谷部さんや伊藤さんとお話ししている中で、シブヤ大学のようなものが最終的にJリーグにようになったらいいね、という話がありました。
僕も、ハローワークがJリーグのようになればいいと思います。
行政資本だけではなく地域資本、民間資本、さまざまな資本が入っていって、地域密着型で地域から愛されて、ハローワークがあるからこの地域が豊かになっているとみんなが思えるものにしたいです。
そうでなければ、持続可能性を考えていくと、予算はどんどん減っていく一方です。

しかし、問題自体はどんどん複雑化し、難易度が高くなってきています。
やっぱり、行政資本だけではなくいろいろな資本を集めて、行政と民間と半分ずつぐらいのかたちがいいと思っています。
コストパフォーマンスのいいハローワークのようなものができればいいと思います。
今、そういったモデルをつくっています。

司会:
半生をお話しいただきました。続いて、岡部さんにお願いします。

岡部:
コトラボ合同会社の岡部です。
私は、コトラボ合同会社という名前で、まちづくりを仕事にしています。
始めたのは2004年です。
大学、大学院で建築を学び、卒業後すぐに、今やっている寿町の日雇い労働者の街のいろいろな問題に関わることになりました。
そこから、もう自分でやろうと思い、今に至ります。

それ以外にも、横浜のNPOサポートの中間支援組織の役員をしています。
また、今はフューチャーセンターが世界のいろいろなところでありますが、シェアオフィスや、地域企業も一緒に新しい技術開発をするときに使うようなセンターなどをサポートしている、関内イノベーションイニシアチブ株式会社の役員もしています。

実際に活動している場所は、横浜の寿町という日雇い労働者の街です。
それと、3年前から、愛媛県松山市三津浜という港町の、シャッター商店街の活性化事業をやっています。

まず、1つ目の寿町です。
皆さんが思い描く横浜というのはここにありますが、そこから歩いて10~15分の所にあります。
200メートル掛ける300メートル程度の非常に小さなエリアです。
そこに、日雇い労働者の簡易宿泊所と呼ばれる宿がたくさん立ち並んでいます。
日本には、東京の山谷と、寿町と、大阪の釜ヶ崎の3つがあり、ドヤ街と呼ばれています。

すでにNPOがあるので、12年前にそのNPOの人たちと関わるようになりました。
当時は、廃車が町の外から持ち込まれたり、粗大ごみの不法投棄が山になっているような、ぎょっとするような地域と見られていました。
今も、昔のその印象があるので、横浜の人たちが寿町と聞くと、危ないよ、行っちゃ駄目だよと言います。

けれども実際は、もう町の状況は変わっています。
もうほとんどの人は高齢化しています。
結構気さくで、下町の江戸っ子のおじさんのような感じです。
あいさつが行きかい、誰かが倒れていたら声をかけます。

今、コトラボはバックパッカー向けの宿をやっていますが、迷っている旅行者がいると地域の人が声をかけて、英語も喋れないのに、誰かれ全部うちのフロントに連れてきてくれます。
全然違うところのお客さんのときもありますが、このようにとても親切で人情味のある所です。

けれども、ステレオタイプな昔のイメージが残っていて、行ったこともないのに、あそこは危ないよ言う人がいます。
そして、それを聞いた人もまた危ないよと言ってしまっています。
この状態に疑問があって、すり合わせていく必要があるのではないかと思っていました。

地域にある、使われていない資源を活用して事業ができないかと考えました。
簡単な映像があるので流します。
これは10年前に作った映像です。

こういう不法投棄などが町の外から持ち込まれていました。
今現在はそういうことはほとんどなくなり、風通しがよくなっています。
当時は、暴力団のような人たちもたくさんいました。
カメラを撮るのも難しい時期もありました。
このエリアは200メートル四方ですが、人口が6,000人います。
白川郷のある白川村と同じぐらいの人口が、この200メートル四方にいます。
その受け皿として簡易宿泊所がありますが、10年前で7,000~8,000部屋ぐらいありました。
今はもう少し増えていて、9,000部屋近い数があります。

つまり、簡易宿泊所は、人口と差し引いても2,000室ほどの空き部屋がある計算になります。
当時から建物を持っているオーナーさんにも、そういう空き部屋をどうにかしたいという意向がありました。
新しい人の流れができると地域の印象も変わっていくと思うので、この空き部屋を利用したプロジェクトをやろうと決めました。

もちろん、ホテルや宿をやった経験はないので、見様見真似で始めました。
まずはホームページを作り、予約が来たら英語対応の仕方、英語の張り紙、チェックインの仕方を学びました。
営業許可は取っています。完全に手作りで宿を始めました。

1つの建物だけではまちづくりになりません。
シブヤ大学とも似ていますが、地域の中の空き部屋をつなぎ合わせて、町全体を1つの宿に見立てました。
そうすることで、町に新しいイメージが付加されるのではないかと考えました。
さっきのようなネガティブなイメージもありますが、今はこういうふうに町が変わって、バックパッカーやいろいろな人が来るようになったというイメージをこの街に付け加えてはどうかと考えました。
このようにして、町自体はそんなに変わっていないのですが、寿町へのイメージが変わっていけばいいと思います。

イギリスやヨーロッパの都市再生のときにも、こういう映像が作られています。
都市プロモーションの1つの手法です。
これにより、旅行者だけではなく、アーティストやクリエイターも寿町に興味を持ってくれるようになりました。
ツーリスト宿をやることによって、このようにイメージが変わります。
売り上げを建物の所有者とシェアすることで、われわれの運営費を捻出しました。
寿町のおじさんたちの雇用も、3年ぐらい前からやっています。

それ以外にも、地域内外でのコミュニティもできています。
旅行者と会いたい、コミュニケーションを取りたいという学生や社会人がボランティアで関わってくれるようにもなりました。
このように1つ、町の中にロビーをつくって、ここにチェックインしてもらってから建物に振り分けるというかたちです。
今、全室で60部屋ぐらい運営しています。
畳3枚分の、日雇い労働者の人向けの宿です。
去年は10周年だったので、さらに改装をしました。
屋上は非常に広いです。
客室は、手を伸ばすと両方の壁に手が付くぐらいで、すごく小さいです。
これは、改装中の横浜駅の宿です。
仮囲いでうちのホステルを紹介してくれたりもしました。

このように活動していくと、旅行者だけでなく、社会人も来るようになります。
すると、今度は社会人や若い人たちと交流を持ちたい町のおじさんたちもボランティアで関わってくれるようになります。
若い人と関わると、俺も頑張らなきゃいけないと思ってアルバイトするようになるおじさんも出てきます。

今度は、そういう人たちをサポートする環境をつくるにはどうしたらいいかということで、慶応大学と授業を行っています。
また、町の外に多い木造アパートの空き家を活用して、おじさんたちをエンパワーメントしていく環境づくりもやっています。
最近は、さらなる空き家活用として、シェアハウス、シェアカフェ事業もやっています。今日は割愛しますが、ホームページでも紹介しているのでぜひ見てください。

もう一つは、三津浜です。
道後温泉や松山城という、観光地としての松山はこのあたりです。
三津浜は、そこからちょっと離れた港町です。
ここは、夏目漱石の『ぼっちゃん』の主人公が東京から赴任してくるときにここから松山に入ったという、歴史的な玄関口でもあったところです。
ところが、モータリゼーションの影響で船の行き来もなくなってしまい、人の流れもできなくなってきました。
どんどん商店街のシャッターが降り、2000年ごろには閑古鳥が鳴く状態になっていました。

2005年ぐらいから、地元の若い人たちがお店を開きはじめ、少しボトムアップしていきそうな流れがあります。
それを行政もサポートしたいというので、われわれも地元の人たちと一緒に事業をやっています。

具体的な内容は、空き家と人をマッチングする空き家バンクという事業です。
電気メーターが回っているかどうかで1軒1軒の空き部屋を調査し、この地域の中に200軒ほどあると分かったらすべての登記簿を取り、1軒1軒にコンタクトを取るというかたちで空き家情報を吸い上げました。
そして、そこに移住したい人、お店を開きたい人をマッチングします。
3年ほどの間で27件の移住をマッチングしています。
最近の自主事業がこちらです。
築90年の産婦人科で、地元でもなかなか手を付けられないと困っていた中、何とかしろと言われました。
東京のオーナーに会いに行って話をしてきました。
オーナーからも、お金は出さないけど何とかしてくれと言われました。
うちも弱小企業なので困りましたが、お金を多少かけて改装しました。
業者に出すと何千万もするので、自分で手を加え、地元の人、大学生にも手伝ってもらって改装をしました。

これは改装後の図面の一部です。
部屋ごとにお店を貸すかたちでサブリースをして、改装した費用をちゃんと戻していけるような仕組みをつくっています。
3年ほどで回収できるので、3年目以降は、そこで蓄積したものを町の活動のために使う仕組みにしようと思っています。
コミュニティ内で、そのコミュニティのアセットをうまく活用して町づくりの持続性を高めていくことを、1つ目の事業として、やっています。

実際、こういうものを行政に提案しても、前例がないとはねのけられてしまいます。
それじゃあ、まずは自分たちでお金を出して成功モデルをつくってから、同じようなかたちでお金を一緒に出しましょうと、地元に呼び掛けています。
ファンドの仕組みをつくってお金を集めて、そういうふうに空き家を活用して、もう一度循環させる流れをつくろうと思っています。

今年の2月ごろに、『日本のシビックエコノミー』という本が出版されています。
シブヤ大学も出ています。うちも少し出ています。
パート2では、まちづくりのつくられ方のようなことを、僕が大学で教えている授業を文章に起こしているので、興味があれば読んでください。

司会:
桑原さん、お願いします。

桑原:
桑原静香です。
今回、ここに呼ばれて一番驚いたことは、私がこの4人の中で一番年上だったことです。
さっきのジェネレーションの話になりますが、ちょうど10年前ぐらいに、NPO法人のコミュニティビジネスサポートセンターに勤めていた際、私は中間支援側にいました。
支援する対象者はほとんどが定年退職後のシニアの方、または主婦の方で、若者の割合はとても少なかったです。
けれど、10年たって、ここまで変わりました。
自分が一番上で、ああそうなったんだなということを、とても実感して驚いています。

今日は、私たちがさいたま市で取り組んでいるBABAラボという取り組みについて紹介します。
われわれが何をやっているかというと、BABAラボという名前のとおりに、ババアを活用しようという、そのままのことです。
おばあちゃんたちの活躍の場をいろいろとつくっていこうとしています。
おばあちゃんの活躍と言ってもいろいろな場がありますが、われわれの取り組みは3つに分けられます。

1つ目が、おばあちゃんの声を生かした商品サービスの開発です。
おばあちゃんたちがつくっているものは日本に溢れています。
布草履や、着物のリメイクなどです。
けれど、そういうものではなくて、もっとおばあちゃんらしくて新しい市場を開拓できるような変わったことがやりたいと考え、孫育てグッズをつくっています。

共働きが増えて、同居は減っているけれど近居が増えています。
私もそうですが、ちゃっかり面倒を見てもらおうと考えて近所に住む方が増えています。
その中で、おばあちゃんが安全に使える、ユニバーサルを考慮したものがないということで、そういうものをみんなで開発しています。

今、8月8日のババの日に発売した哺乳瓶があります。
単純ですが、目盛りが見やすく、握力が弱くなったおばあちゃんでも落下事故を起こしにくい、持ちやすいデザインです。
この間、キッズデザイン賞の少子化対策大臣賞というものを頂きました。
今、販路を探しているところですが、なかなか難しいです。
デパートでも、子育てグッズ売り場はあっても孫育てグッズの売り場はありません。
それをどうつくっていくかということがこれからの課題です。

もう一つの主力商品が、首の座っていない赤ちゃんをおじいちゃんおばあちゃんでも抱っこしやすい、抱っこ布団です。
哺乳瓶は工業製品ですが、これは布の縫製品なので、実際におばあちゃんたちも製作に携われます。
やった分だけお金がもらえるという仕組みです。
哺乳瓶が売れれば、企業としては収入が入って嬉しいですが、おばあちゃんたちの活躍の場や雇用ということを考えると、こっちの手作り品がもっと売れればいいと思っています。

これは、BABAラボのオリジナル商品ではありませんが、別の子育てメーカーがつくっている、抱っこを補助する道具です。
自分たちのオリジナル商品ではなくても、同じような目的で孫育てグッズをつくりたいと思っている企業と一緒に商品開発をしています。
来年には、おばあちゃんたちにヒアリングをしながら新しい物を開発していく予定です。
孫育てグッズに関わらず、おばあちゃんやおじいちゃんの脳がボケないおもちゃなども開発中です。

ただグッズを作って売っているだけではありません。
2つ目の取り組みは、おばあちゃんたちの居場所づくりです。
地域に具体的でリアルな場所をつくって、そこで働いて、働いている者同士でコミュニティができる、つながれる場所をつくっています。

今あるのが、BABAラボ埼玉です。
渋谷から埼京線で1本の武蔵浦和駅から徒歩15分の所に、一軒家をお借りして工房をつくっています。
30代後半から87歳のおばあちゃんまで入り乱れて企画、製造しています。
30~40代のお母さんたちは子連れで出勤も可能です。
もちろん、おばあちゃんたちが孫を連れてくる、孫連れ出勤も可能です。

雇用と言うといろいろな形態があります。
80代の時給と30代の時給を同じに考えると、なかなか難しいものがあります。
ですので、管理部門は40代のお母さんたちがパート勤務、おばあちゃんたちは外部の内職請負契約です。
50~60人登録していますが、みんな健康などいろいろ理由があって働けなくなるので、ようやく5~10人分ぐらいのパワーです。
来ても、ただ喋ってお茶を飲んで帰る人もいます。
管理部門は管理能力を求められますが、楽しいです。
ボランティアの方にも支えられています。賄いを作ったりもして、月曜日と金曜日はみんなでカレーを食べます。

BABAラボ埼玉と急に呼ぶようになったのは、岐阜に新しい店舗を立ち上げ中だからです。
岐阜の池田町という所の道の駅の空き店舗を借りて、そこにBABAラボ岐阜をつくろうと思っています。
BABAラボ埼玉は孫育てグッズをつくるのがメーンですが、岐阜は、おばあちゃんたちが学んだり、ITスキルを付けたりする場にしようかと話しています。

ここの立ち上げは、うちとは会計が別です。
岐阜で80年以上、子育てグッズの製造メーカーをしている社長さんが、今までは子育てグッズばかりつくってきたが、子どもを産む人も減っているので、これからは孫育てグッズやシニアに向けた商品を開発したいと言うので意気投合しました。
社長自らがお金を出してくれて、場所を借りて、社員を1人派遣して、おばあちゃんたちの職場、コミュニティをつくっていこうとしています。学ぶだけではなく、仕事もさせると思います。

5年目にしてようやく、もともとの目的にたどり着きました。
やはり、おばあちゃんたちが通える範囲はどうしても自転車範囲に限られています。
埼玉の小さい場所だけではなく、働いたりコミュニティで地元の人とつながれる場所が全国にあればいいなと考えていました。
岐阜を皮切りに、どんどんいろいろなところにつくっていきたいと思っています。

課題は、やはり、場所ごとにリーダーとなる人が必要になることです。
70代で張り切ってる人が多いですが、先を考えると、40~50代がリーダーになってくれると一番いいかと考えています。
もし、皆さんの中でBABAラボを地元につくりたいという方がいましたらお声がけください。

3つ目の事業は、今、新しくやっていこうとして、伊藤さんにも相談に乗ってもらっています。
今まで、ものづくりや場所づくりと、どちらかというとハードに寄っていました。
今度はソフト事業をやっていこうと思います。
各地に場所ができたら、それだけスケールメリットもできてくるので、単純に言うとマーケティングのようなものをやっていこうと思っています。

冬に、Webを全面リニューアルしました。
おばあちゃんのWebメディアもどきを作ろうと思っています。
そこに、おばあちゃんたちの本当の声を載せたり、いろいろと実験的なことをしていきたいです。
問題は、今まではハード寄りの仕事をしていたので、なかなかソフト寄りの人材がいません。
これからいい人と出会えるといいなと思っています。

この話をすると、「じいちゃんはどうしたんですか」と必ず聞かれます。
JIJIラボ軍団は、コミュニティはなくソロ活動をしています。
哺乳瓶の製造の支援をしてくれたり、元メーカーで働いていた人は在庫管理とか部材の管理とかをサポートしてくれます。
ひそかにJIJIラボも大活躍中です。もっと集めたいと思っています。

最後に何を書こうかと考えました。
ソフト事業をやるにあたって、メディアなどに興味のある人はいませんか。
本当に新しい事業なので、マネタイズも含めて乗っ取りたいというぐらい勢いがある人がいたら、ぜひ一緒に楽しい事をやりたいと思います。
この場を借りて宣伝させてもらいました。

司会:
いくつか、取っ掛かりのある質問を出しながら対話の時間をつくっていければと思います。

まず、特に平尾さんと塩山さんにお聞きしたいです。
この10年間で、それぞれの活動がどのように変化してきたかということ、それから、社会の環境がどのように変化してきたかということを浮彫りにしたいと思います。
特に、企業や行政からお金をもらうということは、信頼関係なしにはできません。
そのやり方自体がどのように変化してきたのかというところから、それぞれの活動が地域の中でどう発展していくかということを見られたらいいと思います。

シブヤ大学も、始めたときはやはり思い先行で、確たるビジネスモデルがないところから、たくさんの人が集まれば企業のCSRによる寄付や協賛も集まるのではないかという思惑から活動しました。
なかなかそう上手くはいかずに、ビジネスモデルをつくることに非常に苦労しました。

特に平尾さん、塩山さんの活動は、寿町でのホステル事業やBABAラボさんのものづくり事業とは異なって、ソフトベースですし、かなり手探りしながらつくってこられたのではないかと思います。
この10年間を振り返って、それぞれの収益事業の内容、ビジネスモデルは、どのように変化し、工夫してこられたのでしょうか。

平尾:
まだ模索中ですが、そういう前提でお話しします。
最近、行政と民間に動きが出ていることが1つずつあるので、ご紹介します。

まず、民間です。
広島の中心部に、タワーマンションが出来始めています。
この2年ほど、ディベロッパーなどから、マンションを拠点として周辺地域を巻き込むようなコミュニティをつくってほしいという依頼が来るようになりました。
まだまだ進行中で完成したものはありませんが、そういった依頼は、立ち上げた当初はまったく考えていませんでした。
コミュニティづくりに特化したNPOというイメージができてきたというのが、企業との関係の変化です。

もう一つは、行政です。
地方創成というここ最近のブームの中で、どんどん行政のお金が投入されていますが、ゆくゆく、その受け皿はどこになるのかが見えていません。
行政の支援が終わった後は、関係者たちはもとの場所に戻ることが多いです。
その中、ひろしまジン大学が、育てられた人材たちやつながりを維持していくためのプラットフォーム、受け皿として機能できないかという相談を、今、県から受けています。
どういう仕組みでやっていこうかと考えています。
これも、立ち上げ当初にはまったく考えていなかった動きです。

バブルをバブルで終わらせないように、地方創成をちゃんと地域に根付かせる1つのきっかけとして動いていきたいと思います。

司会:
企業や行政がひろしまジン大学という1つのNPOにそういった期待を寄せるということは、10年前では考えられなかったことでしょうか。

平尾:
そうですね。ほとんど宗教団体と間違えられていました。
広島は、NPOの数が東京に比べて数十分の1です。
これが地方でNPOをやるということかと、今でも思うことは多いです。

メディアに出ていくのも、自分たちの団体以上に、NPO法人とはこういうものだとアピールするために出ているところもあります。
そういう信頼醸成を考えると、この10年の変化はかなり大きいです。
社会の中でNPOが求められることが、一地方においても少しずつ根付き始めているのかなと感じます。

塩川:
最初は思いベースだったので、マネタイズという言葉さえも知りませんでした。
どうやって収益化していくのかを模索し、トライアンドエラーでできることをやっていきました。

4段階にフェーズが分かれていました。
最初のフェーズは、2007~2009年です。
本当に手探りな状況の中、ゴミ拾いを始めて、地域活性化のイベントやフリーマーケット、制作物作成などいろいろなことをしてスキルを付けていきました。

一番最初の仕事はアメリカ村の活性化でした。
大阪には、若者が集まるアメリカ村という所があります。
委託費が5,000円、1万円という話で、吉本興業の2丁目のギャラみたいでした。
チラシやプレスを作ってメディアを呼んで、公園を使えるようにといろいろなことをしますが、ほぼ赤字です。
期待値以上を返していくとなると、持ち出しの仕事ばかりです。
けれども、逆に自分たちはありがたいと思っていました。
ノーギャラでもいいので、仕事をもらえるというのは非常にありがたいことでした。
それらをどんどん打ち返していくと、ギャラも上がっていきます。
最初が5万円、ヒットしていくと20万円、50万円、100万円、1,000万円というかたちで、企画書を書くという仕事さえも、どんどんギャラが上がっていきます。
最初の2年ぐらいは、来た球を打ち返していくという反復練習だけのフェーズでした。

3年目ぐらいから、徐々に関西の大手の企業のコンペに出るようになりました。
博報堂や電通など大手代理店のコンペに出て、大きな企業相手に戦っていけるようになりました。
あくまでも社会性や公共性の高い案件に限られますが、そういうコンペで勝てるようになってくると、そこで大きく、年間何千万円の収益が出てきました。

初めての利益は、ZAQという関西のインターネットプロバイダです。今はJ:COMに買収されています。
ZAQというマシュマロのお化けがいて、それがいることによって関西が元気になっている現象をつくってほしいと言われました。
マスコミュニケーションは代理店がやっていて、もっと地域に根差したコミュニケーションやコンテンツ開発をしてくれという依頼でした。
そこで、地域に根差したコミュニケーションをどうしていくのか戦略立案をし、ウェブサイトやCM、番組をつくることを提案しました。

そういうことも、初めての事業ですけど面白いからやってみようと取り組みました。
それが決まると、何千万という金額が入ってくる。
そうなると、次は自分たちへの人材投資や、事務所に投資をしていけるようになりました。  

第3フェーズに入ると、行政や企業のもっと前の段階の話がきます。
企業や行政の100年後や10年後をどうしようかということです。
仕様書づくりの段階で話をするとなると、ビジョニングから一緒に入っていけるので、そもそも部署をつくりましょうとか、そこに人材を配置してコンペをして、そのうえでうちを選んでくれるならいいけれど、という話ができるようになります。
行政においても、決まった案件ではなくて、新しい部署をつくる、新しい予算をつくっていくという、問題意識から入っていけて、そこから提案をしていけます。委託業務というよりは、一緒に事業をつくっていく共犯者のようなものです。
どうやって上司を騙していくか、どうやって議会を通していくのか、予算をどういうふうに取っていくのかというところを、2011~2012年ぐらいからやり始めることができるようになりました。

2014年~2015年に次のフェーズに入りました。
今は雇用も30人ほどいて、スタッフは子どもも生まれ、家族も増えてきました。
一方、委託と言ってもこうした事業は単年度事業が多いので、翌年度にどうなるか分からないことが多いです。
すると、どんどんクリエイションしていこう、世のなかを変える発明をしていこうと大きなことを言いながらも、やっぱり、組織としての安定も必要になってきます。

そこで、マネタイズ自体をしっかり担保していくことになります。
飲食事業、BtoC事業、商品開発、サブリースや不動産業です。
そうして、自分たちがしっかりと働き続けられる環境をつくっていきます。
若者が働く機会と環境をつくっていくために必要な衣食住の支援を行うため、委託事業ではない新しいブランドをつくっていきます。
そのような第4フェーズに変わってきていると思います。

それらは自主事業なので、先行投資がいります。
そこは、第3フェーズや第2フェーズで並行した事業で収益化をしていって、そのうえで第4フェーズの、新しい自社ブランドをつくっていきます。
先ほどのハローライフもそうですが、内装費に2,000万円ぐらいかけて投資をしていくということも含めて、自分たちとして投資を促していこうと思います。
第2フェーズも第3フェーズも、それぞれの仕事を続けながらフェーズを移行しようとしている感じです。

司会:
平尾さんも塩川さんも、NPOとしてのミッションに基づく非収益的な活動の部分と、それを支えるための収益事業としての企画や制作があります。
特に、塩川さんの話だと、収益事業において、それを本業にしている企業と変わらないか同等以上の成果を出せる稼ぐ力を身に付けて、そこで得た収益を、また本業である収益事業に再投資していくという循環になっています。
現在は、自主事業としてさっきのハローライフの活動をしているというステップですね。

塩川:
そうですね。

司会:
本来の自分たちのミッションである非収益事業以外の収益事業を行うという考えが、NPO活動をしているとなかなか思い浮かばないものです。
非収益事業そのもののなかでどう収益を得るか、というふうに考えがちだと思うのですが、そこは最初から割り切れましたか。

塩川:
話も聞いてもらえなかったらがむしゃらになるしかなく、収益なのか非収益なのかを言っている場合ではありませんでした。
そもそも、NPO自体がしっかりと事業として成立していかなかればならないので、ちゃんと稼いでいかなければいけません。
あまり考えずにそのあたりはやってきました。

司会:
次の質問です。特に岡部さんと桑原さんにお聞きします。
今現在、進行中のものも含めて、寿町や埼玉県での取り組みを考え方の基礎にして、ほかの地域でもそれを展開しようということだと思います。
シブヤ大学でも2008年、2009年ごろに、姉妹校という取り組みを広げて、いろいろな勉強をしました。岡部さんと桑原さんは、現在、どういうふうにこの質問に対してお答えになりますか。

岡部:
難しいです。僕の場合は、寿町でできたモデルを展開するというところからは入っていません。
韓国や熱海のホステルがうちにインターンで来るので、ノウハウを提供したりはしています。
ただ、課題というか、地域によって何が問題なのか、何が地域資源として使えるかは、明らかに寿町と違います。
そうすると違う入り口から考えないといけません。

1年目は、空き家をつなげてホステルをやろうと思っていましたが、いろいろな人たちから話を聞いていると、まずそこをやるべきではないと思いました。
地元団体の長の人たちと関係性を1~2年でつくって、その中で見えてきたものをどう料理するかということに徹して、病院をやることにつながっていきました。

もう一つ、僕が大切にしていることとして、横浜のスタッフはまったく連れてきていません。
地元の人を雇用して、なるべく地元のアーティストなどにお願いをするかたちをとっています。
そうしないと、大きな会社、広告代理店などから委託を取ってやっても、その委託が終わると撤収になってしまうわけです。
おそらく、またゼロベースになって元に戻ってしまいます。
そうならないためにどうするかを考えないといけないです。地域の側から見ないといけません。

三津浜も、僕らが入る前にそういう企業に裏切られたことがありました。
おまえもまたそうなのかと、一番初めに言われました。
僕はそうはなりたくないから、1年目から、委託が切れる後のことを考えて動いていきたい、と言ってしまいました。
ですので、コミュニティアセットという考え方を打ち出していく方向になっていきました。

司会:
あくまでその地域の人を主体に、地域の課題を解決する事業を組み立てていくということですね。
桑原さんも、先ほど、これからのプロジェクトとして紹介がありましたが、あれはそもそも別の取り組みですか。

桑原:
そうです。うちも、最初は、移転に際してパッケージ化できるのではないか、モデルがつくれるのではないかという前提でいろいろ考えました。
しかし、やはり難しいというのが正直なところです。

何ができるかというと、たくさんの事例を集めることが大事です。
例えば、必ず最初にぶち当たる壁が、地元のおばあちゃんたちを集めるということです。

東京や埼玉だと、アンテナを張ってるおばあちゃんがたくさんいるので、イベントをやるとわっと来たりします。
岐阜で同じことをやろうと思っても全然来ないです。
埼玉だったら新聞広告では絶対に人は来ないですが、岐阜は新聞広告がいいという話になりました。
そういう事例をたくさん持っておく必要があります。

次にどこか、例えば新潟でつくりたければ、おばあちゃんを集めるときにはこういうメニューがあるので、まずこの地域性に合ったのはこれじゃないか、これからやってみよう、と言える状態にするということが、まずは大事だと思います。
やっぱり、ビジネスだと考えると、同じものは絶対につくれません。
それぞれ土地で収益が上がるものはバラバラに考えた方がいいと思います。

唯一、共通で考えられるのは、コミュニティのつくり方です。
閉じないコミュニティをつくることが重要です。うちは、よく公園に例えます。
コミュニティを公園と例えて、取りあえずベンチをいろいろ置いておきます。
疲れたときに座れるし、いつ立ち上がって去ってもいいし、常に休める場所、人と会える場所をつくっておくという考え方です。

コミュニティというと、人でにぎわっていないと駄目じゃないかと思われがちですが、そうではなく、ただ公園のベンチでいいのです。
忙しいときには気付かなくていいけれど、気付いた時に座れるというつくり方は、これから全国で開いていくときの共通認識かなと感じています。

答えは出ない、すごく難しい質問です。

(第二部終了)

第三部 トークセッション
司会:伊藤 剛(シブヤ大学理事/asobot代表/GENERATION TIMES編集長)


司会:
第3部を始めます。
早速ですが、第1部に登壇してから1時間半ぐらい、各4団体の話を聞いたので、まず、坂口先生と宮城さんから、感想とコメントをお願いします。

坂口:
本当にいい話をたくさんありがとうございました。
一番印象的だったのは、皆さん、NPOの活動や合同会社をやりながら、無償で労働やアイデアを提供するボランティアではなく、最初は5,000円、1万円だったかもしれませんが、ちゃんと対価を取って、プログラムをつくって提供して実行しているのだなと思いました。
おそらく、10年前、あるいは20年前は、それが難しかったのだろうと思うのです。
面白いことを提案したとしても、ボランティアでどうぞ自由にやってと言われたかもしれない。
そこをどんなふうに戦ってきたかが気になったと同時に、それを確実に手にしてきた皆さんなのだと思いました。

司会:
宮城さんはどうですか。

宮城:
結構昔から知っている方々もいて、まさに、私は先ほど創造と言いましたが、皆さんが道をつくってきている、創造してきているのが、すごく伝わってきました。
道なき道、つまり先を走っている方がいてということではなくて、皆さんがチャレンジして、試行錯誤しながら、そこに道ができていくというプロセスだと思ったし、まさに、ビジネスとソーシャルな仕掛けが融合してきている姿を、それぞれの皆さんの仕事を通して、すごく感じました。

司会:
他の登壇者の4名の方にも聞きたいのですが、たぶん、事前に何となく活動を横目で知っていたり、こういう活動をやっていると、どこか別のところで会ったり会わなかったり、きょう初めて会う人たちも居ると思うのですが、自分以外の3名の方たちとシブヤ大学の話を聞きながら、同時代感を感じたり、自分たちとここは違うと思ったことも含めて、それぞれの方にも聞きたいのですが、平尾さんからいいですか。

平尾:
うちと皆さんの一番大きな違いは、建物を持っていないというか、場を持たない、具体的なここという場所がないというのは結構大きいと思います。

実はうちも、まちじゅうがキャンパスであると言いながらも、B to Cで関われるような場をつくりたいという思いが今すごくあります。
それがカフェなのか、何らかのバーなのかは分からないのですが、そういう拠点を持ちながら、そこで人が交わったり、いつもそこに行けば誰か居るという場所を、せっかく町全体を使っているのであれば、拠点を1個つくりたいと今思っています。

今日は、遊休資産の活用みたいなところも含めて、結構皆さんトライアルでやっていることが分かって、自分たちは、完全に形をつくってではなく、もう少し実験的に始めてみようかなと、すごく思いました。そういうところは学びでした。

もう一つは、人を雇用することにおいて、うちは、ある意味、誰も雇用していないのです。
スタッフが常時2人から3人居るのですが、皆さん、個人事業主という形で、一緒にパートナーとしてやっているのですが、たぶんこれから大きくなっていっても、この形は、もしかしたら変えないと思います。

昨日も左京さんと話したのですが、もし10億円稼げるNPOになったとして、10億円を一NPOが稼ぐよりは、1,000万円稼げる人たちが100人居た方がいいのではないかと思っています。
それが個人なのか団体なのかは別としてですが、そういうところにおいて、結局、アクターというか、社会に何か関わっていく担い手をつくっていく。
そこでちゃんとお金を回すアクターが100人居る方が、社会的なインパクトが強くなってくるのではないかと思うので、皆さんの雇い方や人との関わり方というところで、逆に、自分たちが今やっている形は、これからもこうしていくかなということを、お金の面として感じました。

司会:
塩山さん、他の3つの活動をあらためて聞いて、共通していること、違い、何でもいいです。
コメントをお願いします。

塩山:
横浜の岡部さんの話は、スマスタを始める前に、実は横浜に2006年ごろに行って、先ほどの映像を現地で見て、すごく衝撃を受けました。きょうお会いできることも大変光栄で、うれしいです。

逆に、全ての問題は、先ほどのホステルの話も、BABAラボさんの話も、大学の話も含めて、教育も、高齢者対策も、まちづくりにおいても、いろいろな若者の対策においても、つながっていたりします。
行政や大企業は、縦割りであったりして、いわゆる規制緩和をしたり、横串を刺していくことが、簡単なようで難しくて、なかなかできません。

でも、こういった活動であれば、非常にそういったことができる可能性があることを、本当にすごく感じているので、横浜も広島も渋谷も含めて、国家戦略特区のようなことをもっと高らかに構想していき、横串を刺したドラスティックな展開が、たぶん、次の展開としてはできるのだろうと、お話を聞きながら感じました。

司会:
岡部さん、お願いします。

岡部:
この登壇の前に、控え室で塩山さんが100人雇用することを目標にするという話をしていたので、衝撃を受けました。
うちもまだ正社員は数人ですが、人を雇うことは生活も抱えることだと思うので、それをしているのは、正直衝撃を覚えました。

それをまかなうためのインカムをどうつくるかが非常に重要だと思うので、そこに対して、私は、場や建物をうまく使ってやろうと考えてはいるのですが、その規模では、100人は無理だと思っています。
そういう意味で、いろいろなビジネスサイクルをもっと学ばなければいけないのと、共有をする場がもっと必要だと感じました。

表面的に見せるだけではなくて、ノウハウをどういう形で担保し、共有するかを仕組みとしてやれたら、自分もすごくいいし、それぞれいいことができるのかなと思いました。

司会:
桑原さんもお願いします。

桑原:
みんな在庫がなくていいなとつくづく思いました。

司会:
確かにメーカーですものね。

桑原:
結構夢で見るのです。
ほ乳瓶の在庫の山に埋もれて窒息する夢をよく見るのです。
どうしても、ものづくりを中心にやってきたので、ソフトの事業をどうやるかは、先ほどの大阪の事例もそうだったのですが、すごく参考になりました。
これからの2年、3年が見えてきたかなという気がしました。

話は違うのですが、うちは、行政とはあまり付き合いがありません。
というのも、BABAラボをこれから全国でつくっていくときに、誰でも立ち上げられるようなモデルをつくりたくて、たとえつながりがなくても、そこでしっかり稼いで、小さくてもやっていけるようなモデルをつくりたいと思っているのですが、そうは言ってもなかなか難しいところはあって、先ほどの、来た球は全部返すではないですが、そういう瞬間があってもいいのかなと、きょうは心が少し揺れました。
がむしゃらっていいなとすごく思いました。

宮城:
とはいえ、食えているのはすごいことだと思うのです。
塩山さんなどは、2007年、本当に訳が分からなかったです。ただ、若者の叫びですよ。

それが、今、既に30人もスタッフが居るという状態になっているのは、すごいことだと思うし、一方で、皆さんのお話にも、それを、その地域や他の地域で展開したいという仲間が出てきていること自体、すごいことだし、これは、すごく、社会が大きく面的に変わろうとしていることを象徴されている方々なのではないかとあらためて思いました。

司会:
ここから、過去を振り返りながら、これからのことを考えていきましょう。

私も、シブヤ大学10年で、私自身の会社が15年で、やはり、若いときのエネルギーとは違った、知性を持ちながらやっていかなければいけないフェーズになってくる中で、不安や課題もあるのですが、登壇者の4名の方も含め、ここからはフリーに、今後やっていきたいこと、もしくは抱えている不安を、この人に投げかけてみたいなどということを、フリーに、残り15分ぐらい展開していきたいと思います。

まず、どなたか率先して、皆さんに投げかけたいことがあればお願いします。

塩山:
先ほどの人数の規模ではなくて、もともと私たちが目指しているのは、ジブリのような会社です。
現代版ジブリがいいなと思っています。

司会:
念のために、スタジオジブリのジブリですね?

塩山:
そうです。
現実、映画作品の中で社会を設計していって、こんな社会をつくっていこうと思うと、すさまじいクリエーションというか、ジブリも、何百人で1個の作品を、年間かけてつくっていますが、やはり、緻密さや、積み上げていくことを考えると、今、実際、30人では少ないと思っています。

作品を作ったり事業をしていく上で、私たちも、今の一個の事業の規模が、1年間で5,000万ぐらいですが、やはり少なくて、もっと大きな研究予算や、もっと大きな社会を発明していこうと思うと、上の規模にいけば、行政もプロポーザルがあるのですが、そこに私たちが入れないのです。
大手のシンクタンクや代理店しか参入できません。
なぜ私たちに声が掛からないかというと、そもそも団体の規模として、予算規模も含めても、そのクリエーションに耐えきれないわけです。

私たちがそこに入れたら、もっと大きな社会設計や構造改革ができるのではないか、革命のようなものを起こせるのではないかと思うので、それも一つの、チームラボさんではないですが、100名ぐらいのクリエーターなどで社会を変えていこうと思ったときに、やはり、いかなる個より全員の方が賢いというIDOさんの格言にあるように、チームでクリエーションや発明をしていくということで、人数が居れば居るほど、もっと大きなスケール感で大作をつくれるのではないかと思っています。
そういった面で、高みを目指していこうというのがあって、それで、そういう人数の規模を言っているというのはあったりします。

司会:
質問ではなく、補足ですね。

塩山:
先ほどの、何で人数がというところの、今後のことを含めてですね。
こうやってやっていたら、どんどん、問題や課題発見が見えてくるではないですか。
上が見えてくると、なぜもっと上に行けないのかなというところが見えてくるではないですか。
というところがあるかなと思います。

司会:
もちろんです。

宮城:
今の問いはすごく面白いと思いました。
成功とは何かという問い、失敗とは何かという問いもあるのですが、われわれはもう一回考えるべきだと思います。

成功とは、たぶん、われわれはある種、何が成功かを決められる自由を持っている時代に生まれ育った気がするのです。
という中で、それそのものを、われわれはつくろうとしているのではないかという気はしていて、実は、今のお話で言うと、つい先日、ある連結で10万人ぐらいいらっしゃる企業の幹部の研修のお手伝いをしました。
そこで、成功とは何かという話になったのですが、うちにとって成功とは何だろうといったときに、答えは出なかったわけです。

われわれは、どちらかというと、混乱してもらうことを目的としてその場をつくっていたのですが、一方で、社会起業家の人たちが、みんな楽しそうである。
でも、彼ら自身、別に答えがあってやっているわけではない。という中で、挑み続ける、挑戦し続けることそのものが、一つの成功なのかという対話になったのです。

これは、ぜひ、皆さまのご意見も欲しいところですし、一方で、そのような大企業や大きな政府などとわれわれのような存在が、距離感がすごくあったのが、すごく近付いてきているのです。

研修で、われわれのようなところに真面目に声が掛かるのも、昔は絶対にあり得なかったのです。
そこが融合して、要するに、もう少しお互いが進化すれば、ぐっとかみ合っていくのではないかという気も、一方でします。

司会:
今、宮城さんは、いわゆる今までは、企業の若手の人材育成や、企業内起業家を育てるようなことも含めてやっていたと思うのですが、先日お話を聞いたときに、いわゆる行政、官僚を含めた若手の研修のようなことをしていると聞いて、そこの人たちも、だいぶ意識が変わってきたのではないかとこの間聞いて、その辺の肌感も含めて……。

宮城:
すごく変わっていますよ。
全然もうからない仕事なのですが、人事院の方で、官僚の皆さんの研修を10年ぐらいやっています。
皆さん、官僚は固いと思っているではないですか。
実際そうなのですが、年代も変わるので、結局、今、中心となって現場を握っているのは30代なのです。
30代の人たちは、われわれと十分同じ感覚で仕事ができ得る人たちなので、話は合います。

見ていると、今、1年目や3年目の人たちの研修を中心にやっているのですが、すごく近しいものを感じます。
彼らは、例えば外資の金融や、もうかる仕事の選択があったのだけれども、あえてこの仕事を選んだという人の数が結構増えてきています。
なので、これから十分一緒に仕事をできるし、10年前からやっている感覚で言うと、当時、いくら話をしても、そのまま、壁の向こうに話が通り抜けるような感覚だったのが、今は、がちっと受け止めてくれて、各省庁で、市民社会とのパートナーシップをどう考えるかみたいなことを真剣に議論し始めているので、実は、かなり近い距離に来ている気はしています。

ただ、ラスト1マイルみたいな壁はまだあるので、そこを、お互いが少しずつ突き破っていくようなことが必要なのかなとも思います。

司会:
ラスト1マイルというのは、どうなのですか。
官僚機構が持っている、割と構造的なところなのか、やはり、一人一人のマインド的な部分なのか、どちらなのですか。

宮城:
基本構造ではあるのですが、彼らからしてみれば、みんな、構造を言い訳にする心の構造が、一番課題なわけです。いや、それは越えられる、越えるために、こういう人たちとパートナーシップを組むのだという話をしているわけです。

もっと、要するに社会起業家的に、皆さん、働けないかという問いかけをしているわけですが、実はその自由度も上がってきているし、しかも、答えが、先輩にあるのではなくて、現場の方にあるという状態が、今あるわけです。

つまり、過去を洗っても、別に答えはない。
つくり出さなければいけないという、ある種、混とんや混迷の中に居るようで、でも、むしろ、こういう人たちとパートナーシップを組んだ方が、未来をつくれるということを、彼らは分かり始めているので、そうすると、構造も逆転していく余地があるわけですね。

司会:
その辺は、左京も含めて興味があるところだと思います。
渋谷区の中で、行政の人と、人材研修も含めてやっていて、今の宮城さんの話を聞いて、何か思うところはありますか。

左京:
先日、宮城さんにお話を聞いたときに、社会起業家は、みんながみんななるわけでもないし、なる必要もない。一方で、社会起業家は、社会の未来を予見する鏡でしたっけ。
でも、社会起業家、あるいは市民セクター以外のセクターの中にも、そういったところに深く共鳴し、それぞれの立場や役割の中でそれを担おうとしている人たちが出てきているのが今ではないかという話を受けたときに、なるほどと思ったのですが、その辺をあらためてこういうメンバーにシェアしてもらいますか。

宮城:
言っていただいたとおりですが、ある種、埋蔵金ではないですが、皆さんの中に、あるスイッチのようなものが一気に入るという、前夜のような感じを、自分としては勝手に思っています。

実は、そのわずかな、ここに居る社会起業家の数が倍に増えるというよりも、よほどソーシャルインパクトが大きいわけです。

みんなのそれぞれの心に火がついて動きだす余地は、たぶん、出力の半分も出さずに生きている人がたくさんいると思うのです。
その情熱を傾ける道を見出せていないというか。
そのスイッチを入れていくのが、ある意味われわれの仕事だとも思っているので、社会起業家の仕事そのものは、課題解決そのものを通しつつ、人の意識を変えていくところにあると思いながらやっています。

司会:
坂口先生は、横でずっとうなずいていますが、どうですか。

坂口:
幾つか考えていたのですが、パブリックなことに関するコミットの仕方というルートはいろいろあるけれども、たぶん、宮城さんがずっと話しているバリューというのは、この時代につくり出さなければいけない新しい何かでは実はなくて、何らかのパブリックのシビックのバリューなのだと思うのです。

それが何なのかなと思ってずっと聞いていたのですが、おそらくそれは、一つは人々の心の中に、まだ潜在力として残っている、パブリックなことを思考する考え方。
そこを刺激するとか、その方法が本当に幾つも目に見えてきたのが、この時代の大きな違い、変化なのだろうと思います。

もう一つ思ったのは、BABAラボがそうだと言っていましたが、誰にでもできるような形で、ぜひ展開したい。
すごく頑張った人や、何か優れた人が手に入れられる何かではなくて、その気になったら可能になるようなことをやっていきたいと言ったのもすごく印象的で、そこはつながっているのかなと思いながら、まだうまく言葉にできていません。

司会:
もう一回、皆さんにお聞きしたい。
これはあえての質問ですが、先ほど、宮城さんが、社会起業家が、よりマネタイズやソーシャルビジネスが近付いて、でも、一方で企業、民間の方のビジネスも、ソーシャルに近付いてきている。
それはたぶん、やっていくべき行為だと思うのですが、とはいえ、でも、やはり何となく、社会性なものやパブリックなものに片足を置きながら、ビジネスを構築していくときに、やはり、それでもなおかつ、ソーシャル的な在り方と、ビジネス的なものの在り方を、自分たちのミッションとして、境界線を引くとしたら、そこは、マネジメントしていくときに、どういう瞬間に線引くのか。

つまり、簡単に言えば、今後、企業の人たちは、多く、自分たちだけで解決できない場合に、どんどんコミットしてくると思うのです。

先ほど平尾さんが言っていたように、あるデベロッパーの人が、結局は物を売りたいだけ、家を売りたいだけだと。
でも、プロモーションの一環として、ここにコミュニティーをつくりたいという話はたくさん出てくると思うのです。

そのときに、これはもうかるけれども、これを受けてはいけないのではないかとか、もしくは、ここを変えてくれない限り手を組めないという、どこかで、自分たちの矜持(きょうじ)としてというか、ミッションとして引かないと、そこがどんどんあいまいになってしまうのではないかというのはあって、それがお金の強さなのだと思うのです。

経済活動の中で社会的なことをやっていくのですが、経済プロパガンダに飲み込まれてしまってはいけなくて、非常に難しい質問になってしまうのですが、そこの境界線を、自分たちの中でどこに引いていくかは、シブヤ大学もずっと模索しながらやっているので、あえて、誰からでもいいのですが、そこを聞きたいというか、悩みというか、どこに自分たちで線を引いていくかを、あえて投げかけたいのですが、どなたか。

桑原:
私は、やはり孫育てや、高齢者やシニアなどが話題のキーワードなので、結構、企業の人からも、連絡は多いのですが、ほとんど恋愛と同じで、担当者が好きかどうかという、実施はほぼそこで決めています。

でも、やはり、あくまでも、ゴールがどこであるかで、先ほどの宮城さんの話ではないですが、ゴールが解決であると。この人と手を組んで、解決力がアップするかどうかというところの判断でしかないのかなというところですね。

あとは人と人の関係性です。
間違えたくないですね。

司会:
平尾さん、どうですか。

平尾:
たとえば行政の仕事で、これは主旨がおかしくないかなと思いながらも、どこかがやるのなら、どうせならうちがやって、少しでも良くしたいというのがあったりするときに、無理やり取って、何とかごりごりと担当の人とやり取りしながら、少しでも良くするというときもあるのです。
それはもちろん、最終的には組織のミッションや、自分たちはこういうことをやろうということとの距離感で計ってはいるのですが、少し無理をしてでも、別のところが適当にやるのなら、少しでも、思いがあったり、この分野をずっとやってきた私たちが、何とか取って、やろうというときもあります。

お金の話はすごく難しいですが、お金を突きつけられたときに、自分の組織があらためて見えてくるというか、そのときのせめぎ合いはすごく大きいので、すごくおいしそうだけれども、食べるとうちは終わるなというのが、よくあります。
断るときが一番痛いですが。

塩山:
最短距離かどうかですね。
自分たちが目指すべきゴールに向けて、そこで、事業自体が本意ではないことも多いと思うのです。
でも、最終的に、町や社会を変えていく中で、その人たちの関係性をどうつくっていくのかということもあるので、関係性をつくっていくこと。
最短距離という中で、チームでやっていかなければ駄目なので、うちも、例えば、自分たちで言うと、新卒の社員や新しいスタッフが入ったときに、そういう人たちが担当者をすることもあるのです。

これは、うちだけで言うと、そういう案件が一つの教育的なプログラムになっていたりして、それはもちろん、クライアントには言えないのですが、自分たちがやっていく人材育成も一つの大きなテーマであるので、こういう大きなビジョン、ミッションを達成していく上で、必要な案件、それはもちろん、最終的にいろいろな担当者や、いろいろなことを全て総合的に判断した上で、やる理由が全くなければやりませんが、一つでもあれば受けていきます。
私たちはそうやっています。

岡部:
わくわくするかどうかというところかなという感じはするのですが。
どんなに、先ほど皆さんも同じだと思うのですが、どんなにいいえさだとしても、面白いかなとならないとやらないという。

それは、たとえ、これが地域にとっていいというストーリーがあったとしても、そこに本当に自分が心からわくわくしないと、やらない方がいいと思うのです。
きっと、それを下手に受けてしまうと、このお金だからこのぐらいでいいか、みたいな感じになってしまう気がするので、私はそういう感じの受け方をしたくないので、受けた以上は、安かろうが高かろうが、全力でやらなければいけないと思うので、そういう意味では、わくわくするという基準で考えたいと思います。

あともう一個だけ言うと、地域、今、ミズハマをやっていますが、それも、あのとき、初めに委託を受ける前に、地元に行って、地元のキーパーソンというか、この人は面白いなと思う人に出会えたから、始めたのです。
そういう出会い、人もすごく重要だと思います。

司会:
そこを、シブヤ大学としても。ソーシャル的なことと、ビジネスのところの。

左京:
シブヤ大学は、皆さんご存じのとおり、ずっと受講料が無料という形で来ていて、普通のカルチャースクールのようにやると、都内だと、1クラス3,000円から5,000円ぐらいで構築していかないと回らないわけです。
でも、10年間、何度も、スタッフの中でも会議はあったのですが、結論としては、回り回って、必ず無料でいこうという形になります。

そこで、工夫した結果、今のように、主に、対行政、企業など、ソフトによる関係性、課題解決で収入を得る形になっているのですが、やはり、岡部さんも非常に参考にしていると聞きましたが、ここ数年、非常に興味があるのは、収益事業と非収益事業を分ける形で頭の中を整理して、特にイギリスのまちづくり事業体などでは、例えば、遊休資産、空き家、高架下、使われていないビルなどを活用して、収益を生み出しながら、そこで生まれた収益を、本来のコミュニティー活動や社会的事業に再投資していくという、二つの両翼のような関係があるという話を聞いたときに、目からウロコでした。
気付くと当たり前なのですが、本来の活動の中でどう収入を生み出すかということばかりにとらわれていた感じがしたのです。

ですので、シブヤ大学は、これまでソフトの活動だけでやってきましたが、今興味があるのは、遊休資産等のアセットを活用した収益事業とソフト事業を両立していくというやり方で、今後、模索、検討していきたいと思っています。

司会:
最後に、現場のセンシティブな悩みも含めて、お二方に。

宮城:
本当に、皆さんが言うことにすごく共感しますが、この問いはすごく難しくて、大事な問いだと思うし、自分たちも葛藤があるのですが、やはり、最後は、わくわくではないですが、好きなこと、やりたいことをやるしかないということになるのですね。しかも、正直、それが一番強いと思っています。

先ほどの大企業の方の話を聞いていても、やはりただ10万人の人が集まっても、1人の意志あるひとにはかなわないという気がすごくするのです。
どうしてもまねできないです。
かなわないというか、役割分担すればいいのです。
その意志ある人と、共に仕掛けていくという役割はあると思うのです。
一方で、たとえ大企業の中にいたとしても、その1人の意志ある人になって組織や社会にはたらきかけていくということも不可能ではないはずです。

ですので、一方で、すごくつまらなくなっていく人もたくさん見てきました。
先ほどのデベロッパーの話は、まさに瀬戸際だし、絶対に受けてはいけないのではなく、やりようもあると思うのですが、そのときに、自分たちの意志をどこまで持てるかによって、結果は変わってくると思います。

ですから、皆さんの心の中にそういうものがあるのであれば、それは、絶対にやり抜く価値があると思います。

坂口:
今後10年の社会を考えると、おそらく、日本の社会だけを考えても、課題だらけだと思います。
高齢化は進むし、人口は減っているし、GDPも、もっともっとシュリンクしていくし、行政といっても、何でも解決できるような資産を持っているわけではないし、工夫する余地ばかりがたくさん出てきて、かつ、動ける人も減ってくる。

そうすると、今ある人たちをどうやってうまく動かしていくかという力が、本当に重要になる。
そんなときに、きらっとした人たちが動いていることが、それ自体がアドボカシーであり、アジェンダをみんなに見せることになります。

その意味では、本当にNPOセクターの力がますます必要になる社会になると思います。

司会:
最後に大人な2人から激励をもらいました。今回はここまでにします。
 (第三部終了)
(写真:廣瀬真也)