シブヤ大学

授業レポート

2016/3/2 UP

人に会いに行く旅をしよう。@鹿児島県 鹿児島市

 『桜島だけじゃない!人々の想いが噴火する地  鹿児島』


【1日目:2016年2月26日(金)】
羽田空港から出発して、2時間足らずで鹿児島空港に到着。
そこからバスで桜島の昭和火口観測スポットへ。桜「島」と言っても、島の一部は
大隅半島とつながっています。


山道のような曲がりくねった道を走りましたが、冷え固まった溶岩の上に
道路が作られたため道が曲がっているのだそう。
鹿児島空港から観測スポットへ直行したのは私たちが世界初なのではないかと、
旅のはじめから貴重な体験をしました。


◆NPO法人桜島ミュージアム 大村瑛さんに会いに行く
昭和火口から3.5kmのところにある観測スポットへ到着。天気は晴れ。
気温は低いけれど風は無く、外に長時間いてもなんとか耐えられる寒さでした。
暖かい飲み物をいただきながら、大村さんのお話を伺います。



桜島は1955年〜2015年のあいだ、1年も休まずに爆発的噴火を続けています。
去年は737回、爆発的噴火が起こっています。鹿児島では雨が降るよりも
噴火する数の方が多いという、とても珍しい場所です。


・昭和火口の爆発的噴火の写真。火山雷が起きています。


いろいろ注意点はあれど、これを観光資源に桜島を世界に誇れる場所にできれば
という想いで大村さんは活動をしています。


もともとは神奈川県に住んでいた噴火マニアの大村さん。
当時、フェリーで初めて桜島に向かう時に噴火を目撃しました。
本人は噴火にとても驚きましたが、地元の人はそのことなどまったく気にせず
船内のテレビを観てくつろいでいました。


噴火を災害として捉えず日常的に噴火が見られる桜島に衝撃を受け、何度も通ううちに
観測ツアーを観光資源にできないかと思い、鹿児島に移住しNPOで活動しています。



これからは、桜島を「世界の桜島」にしたいと語る大村さん。
世界中の人が桜島という名前を聞いたことがあって、「死ぬまでには一度噴火観てみたいよね」
というのを世界の常識にしたいという想いがあります。 


噴火警戒レベルの報道があるたびに、鹿児島の人と世界の人との噴火のイメージに
ギャップがありすぎるため、火山に対する恐怖が県外の人の足を桜島から遠のかせて
しまうのが現状です。
日常的に噴火が観られることが世界的に珍しいことで、いかにこのことが楽しめるかという
しくみを作っていきたいと、今後の展望をお話しいただきました。


深夜まで待ちましたが、残念ながら噴火は観られませんでした。
ですが、火口から近い場所で観測できて、とても貴重な体験をしました。


【2日目:2016年2月27日(土)】
◆桜島大根の収穫体験@ファームランド櫻島
朝食も摂らずに朝からバスで早速の移動。バスから降りて畑に向かうと、
大きく育った桜島大根がたくさん植わっていました。



収穫の前に、この道70年近くになる社長の村山利清さんから
桜島大根への愛を語っていただきました。



桜島大根は約300年前に細長い状態で桜島に渡り、度重なる品種改良を経て
今のような丸っこくて大きなカブのような見た目の大根になったそうです。
桜島が噴火するたびに軽石も噴出され水はけの良い土壌になり、日照りの状態が
続いても水分と空気を含んだ軽石が桜島大根の生育を助けています。 


他の地域で栽培されたものより桜島産のほうは甘みがあり、煮ても煮崩れしない、
しっかりとした桜島大根がこちらでは育ちます。


そしてついに、桜島大根を引っこ抜きます!
コツとしては力を入れず、大根の茎の根元を持って下半身に重心をかけ、
テコの原理を利用して抜きます。



見事収穫できた桜島大根は、おそよ15キロほどの重さのものでした。とにかく大きいです!



今回は特別に、採れたてをその場でいただくことができました。
今は桜島大根が花をつける時期のため水分がすこし少ないようですが、それでも水々しく
中身がギュッとつまっていて、辛味がなく香ばしさが感じられる味でした。



そして、畑近くにあるCafe白浜に移り、桜島大根をふんだんに使った朝食をいただきました。
マヨネーズやドレッシングも手作りで、体に優しい味でとても美味しかったです。



・左から村山利清さん、娘さんの智美さん、奥様の昭江さん


 


ファームランド櫻島


◆2チームに分かれて、まちあるき
体に優しいご飯で満たされた後は、フェリーで鹿児島市内まで移動して街を散策します。
 ・フェリーから望む桜島。噴火はまだしていない。


私のいたチームは、coffee-innovateというコーヒー屋さんと、レトロフトチトセビルを訪れました。
はじめにcoffee-innovateさんを訪れましたが、なんとまさかの定休日!
写真だけ撮らせてもらって、次回訪れる際のお楽しみにしたいと思います。 


・「朝のコーヒーは心を浮き立たせてくれる」という看板が気になります。


 coffee-innovate

気を取り直してレトロフトチトセビルへ。 


・道中に降灰置場が。これも鹿児島ならではですね。


レトロフトチトセビルへ到着。住居と店舗が入った築40年のリノベーションビルです。



まずは2階にある、鹿児島の郷土菓子の「ふくれ菓子」をアレンジしたFUKU+REさんへ。
開放的なキッチンでは、スタッフの方がお菓子を作っているのを見ることができます。
丁寧に作られた焼き菓子は、どれも美味しそうでした。



1階はレストランや古書店、コーヒー屋さんなどが入っており、お店同士が壁で分断されて
いないのでウロウロしていると隣の違うお店にたどり着くという不思議な造りをしていて
楽しかったです。



レトロフトチトセビル


◆有限会社吉永醸造店 吉永広記さんに会いに行く
昼食を済ませた後は、醤油のいい香りが漂う吉永醸造店さんへ。
鹿児島の醤油は関東のものとは違い、甘みが強いのが特徴です。吉永醸造店さんは、
パッケージされたもの以外にも量り売りで醤油を販売しています。 


・瓶の中には量り売り用の醤油が入っている


お店の奥にある工場へ移動してお話を伺いました。



創業88年、吉永さんは3代目。街の中のお醤油屋さんはどんどん郊外へ
移っていくなか、今でも吉永醸造店さんは変わらずに営業を続けています。



街の中でも大豆を蒸したら大豆の香りがしたり、醤油を作ったら醤油の香りが漂ったり、
登校途中の小学生が「今日は大豆の甘い香りがするね」といった会話が聞こえたり、
街中でも醤油作りを感じてもらえるような場所がまだあってもいいのではないかという
思いで街の中に醤油工場を構え続けています。 


大学進学で一度鹿児島を離れるも、就職のために鹿児島へ戻りました。
家業を継ぐつもりはなかったので銀行の法人担当に就きますが、取引先の社長と
交流していくうちに父親のことが気になりだし、子供が生まれるタイミングと共に実家へ戻り、
家業を継ぐことを決めました。


醤油の醸造の知識も経験も何もなく、父親のやり方を見よう見まねで学んでいき、
今では一人で醤油を製造しています。
大規模な設備はなく、製造〜容器に詰めるまでほぼ手作業で製造しています。
30種ほどあるオリジナルの醤油のラベル、ホームページ、パンフレットなども吉永さんが
すべてご自身で作っています。


・吉永さんが作った、鹿児島醤油のパンフレット


これからもお客さんとの直接販売を続けていきながら、地元の商店街の活性化に務めたいと
お話しする吉永さん。
お店のあちこちに貼られた地元の小学生からの感謝の手紙には、街に残り続けた
吉永醸造店さんへの親しみと愛情が感じられました。



有限会社吉永醸造店


◆大和桜酒造株式会社 若松徹幹さんに会いに行く
引き続きバスで移動し、焼酎蔵のある大和桜酒造さんへ。
お話をお伺いした若松さんは、江戸末期創業 大和桜酒造の5代目杜氏です。



家業のことを気にしつつも、東京で大手広告代理店に就職。
2000年ごろから焼酎ブームが始まり、2005年に家業を継ぐために鹿児島に戻りました。
焼酎蔵へ案内していただき、焼酎ができるまでのお話しをお伺いしました。


・醸造のための瓶がずらりと並んでいます。


設備が整った大手の焼酎蔵とは違い、米や芋を洗うなどの作業はすべて手作業のため
大量に生産はできないが、その時のテンションが焼酎に反映されるのが面白いのだそう。


・150キロの米を洗う動画をiPadを使って見せる若松さん。


9〜12月の間、ほぼ毎日朝4時半に起きて5時から1時間かけて米を手で洗うこの作業、
とても大変だけど若松さんはとても大事にしています。
焼酎造りで一番に大事にしていることはモチベーション。それを維持するためには
楽をしないで苦労をすること。それがこの米を洗う作業なのだそう。


他にもキツくて大変な作業が焼酎造りにはあるけれど、どこかで手を抜くと
その商品が自分の評価に繋がるので絶対に手を抜くことはできません。 


今の仕事を通じて、東京で働いていた頃はひとつの仕事に様々な人が介在していて
仕事に対する当事者意識が薄れていたのに気づいた若松さん。
代理店で働いていたころの自分がいかに甘かったかを痛感しました。


焼酎ブームが終わった今こそチャンスだと捉え、焼酎は糖質がゼロであることなど
今の時代に合わせたメッセージを発信することだってできると若松さんは考えています。 


それを発信するには東京の力を借りるのではなく、鹿児島にいる優秀な人を
すぐに捕まえて戦略を練ることができる。
今は代理店を通さなくても当事者がメッセージを送れる時代なので、
地方でも十分に情報発信できるとお話しして下さいました。


大和桜酒造株式会社


◆山下商店 山下賢太さんに会いに行く
2日目最後に会う人は甑島(こしきじま)にあるお豆腐屋さん、山下商店の山下賢太さんです。
甑島までは時間の都合で行けないので、鹿児島市内にてお話を伺いました。 


甑島は3つの島を合わせて人口は5000人。去年の3月に国定公園に指定されました。
4足歩行の恐竜の化石が日本で初めて発見された場所でもあります。 


山下商店


山下さんは15歳で島を離れてJRAのジョッキー養成学校に入学するも、体質の問題で
ジョッキーの夢を諦め学校を中退。16歳で島に戻り、鹿児島市で高校3年間を過ごし、
京都で5年間生活をしました。
 


ジョッキーの夢を失った山下さんは目標が見つからないまま高校生活を過ごし、18歳のときに
一時帰省した際、建設会社に勤めていた父親が工事をしている現場に居合わせました。
新しい道路を作るために、島の港の中心にあったアコウの木が父親の操縦するユンボによって
引き抜かれるのを目の当たりにした事が、山下さんの一つの転機となりました。


そのアコウの木は島民の憩いの場であり、山下さんの故郷の原風景でもありました。
昔からあった故郷の景色が壊されていくことにショックを受けた山下さんは、
みんなが好きになれる故郷にするには何をしたらいいのだろうと考えるようになりました。


山下さんは現在豆腐屋さんだけでなく、農業・お土産品のセレクトショップ・通販事業・
加工製造業・観光ガイド事業・民宿経営・レンタサイクル・公共施設の立ち上げ・
食のブランド立ち上げなど実に幅広く手掛けていますが、これらはすべて島民が諦めたもの、
続けられなかったものをやっているだけだと仰っていました。


甑島の文化や生活、風景に蓄積していくものを軸として、島の未来のために山下さんは
幅広く活動しています。


これからは自分が何をしていても島の風景になりたいと話す山下さん。
今は自分だけが新しいプロジェクトや拠点を作っているので、周りからは変わり者のように
見られるけれど、これが普通になる時代がもうすぐ来ると信じて活動を続けています。 


島民みんなが愛する故郷の原風景の場所を、想いだけでは守りたいものを守れないということを
アコウの木の一件で学んだので、もしそこが小さな経済と結びついている場だったら
きっと今でも残っていた。


そのアコウの木の話に多分これからもずっと向き合っていくのだろうし、今の時代に当てはまる、
いつかのアコウの木のような風景を街ぐるみでまた作っていきたいと、お話して下さいました。


【3日目:2016年2月28日(日)】
◆株式会社粋家創房 横山篤さん&壬生勇輔さんに会いに行く
朝食を済ませてからバスで移動。バスを降りて小さな山道を登って行くと、
MATHERuBA Cafeという素敵なお店が見えてきました。 


・鹿児島県産の食材を使ったご飯の他に、食品の販売もしています。


粋家創房さんは建築業の他に、カフェやライフスタイルショップも経営されています。


・カフェのすぐ近くにあるライフスタイルショップNuff


今回お話を伺うのは、他県から鹿児島へ移住してきたお二人です。



壬生さんは去年の4月に東京から鹿児島へ移住。
東京で勤めていた頃に出張で初めて鹿児島へ訪れた際に魅力を感じ、
東京へ戻ってすぐに仕事を辞めて移住しました。



横山さんは岡山県でインテリアショップに勤務していました。
その仕事を辞めるタイミングで粋家創房さんの求人を見つけ、転職を機に移住しました。


鹿児島へ移って、働き方やお金に対する意識が変わったと話す壬生さん。
これまで分業制で仕事をこなしていたけれど、ここだとビックリするほど一人でなんでもやる。
というか、やらざるを得なくなる。大体のことをやらないといけないから経営の仕組みなどが
分かってきて、起業は簡単にできるということを知りました。


そのことが分かった時に、どこかの地方に行けば良かったというよりも、起業しておけば
良かったと一番思ったそうです。
どこに居ても何でもできると、移住して感じるようになりました。


東京の会社で働いていたときは大きいことやっているように感じるけど、実際はそこまでの
ことはやっていなかった。億単位のお金を動かしていても実感がなかったが、今はお金に対する
現実味が増して、100円でも惜しくなるようになったと仰っていました。 


MATHERuBA Cafe


◆靴工房CITTA 日高準さんに会いに行く
バスで山道を抜けて行くと、原っぱに小さな小屋が一軒建っていました。



靴職人の日高さんは東京で靴づくりを学んだ後、山の中に工房を構えました。



25歳で独立する際に故郷の鹿児島か、大学時代を過ごした神戸に戻るか迷いました。
街への想い、仕事のしやすさなどあらゆる面で神戸の方が上回っていましたが、
自分が40〜50代になった頃に地元に帰りたくなるだろうと感じ、鹿児島を選びました。 


日高さんは人里離れた工房で靴づくりの教室を開きながら、一つ一つの小さなニーズに
応えた靴をオーダーメイドで丁寧に作っています。
材料の調達や道具の修理などの際に物理的なハンデを感じることはありますが、
年に数回訪れる東京や大阪で集中的に情報収集をして、そのハンデをカバーしています。 


お話を伺ったあとは、革のキーホルダーづくりのワークショップをおこないました。





靴工房CITTA


◆きりん商店 杉川明寛さん・真弓さん夫妻に会いに行く
旅の最後に訪れたのは、セレクトショップ型の物産店「きりん商店」さんです。





杉村明寛さん、真弓さん夫妻の視点でセレクトをし、商品の買い付け・開発をされています。



お店に入ると早速、明寛さんが美味しいお茶と桜餅を振舞ってくれました。


来たお客さんにはまずお茶を飲んでもらう「茶いっぺ」というおもてなしの風習が
鹿児島にはあります。真弓さんのお母様による手厚い茶いっぺに明寛さんが
感銘を受けたため、お店でもお客さんに積極的にお茶を振る舞うようになりました。
お店に来てくれた人に喜んでもらいたいので、試食なども積極的に勧めています。


お二人は鹿児島県出身。福岡県で広告関係のグラフィックデザインの仕事をしていました。
真弓さんは一旦地元の霧島市に帰るも、結婚を機にまた福岡へ戻ってデザインの仕事を
続けていました。



子供が生まれた時に、真弓さんが幼少期に豊かな自然の中で過ごした体験を
子供にもさせたいと思い霧島へ戻りたいと思うようになりますが、仕事の都合上
福岡を離れることはできませんでした。
ですが、明寛さんが観てもらった占いで「南は良いからすぐに行け」というアドバイスが
きっかけで、霧島市へ移住することになりました。


お茶農家に生まれた真弓さんは、お茶と関わりのない環境に身を置きたくて
デザイナーの道を歩みました。第三者の立場でお茶を見ていくと、有機栽培で育てるのは
とても難しく、霧島産の抹茶は有名店や食品メーカーで特別なものとして扱われているのを
知りました。


霧島産のお茶が日本より海外で主に流通されているのは地元の人にも知られておらず、
地元ではお茶を特別扱いしていないのが勿体ないと真弓さんは感じました。
霧島が誇るお茶があることを伝えたいという想いで、お店にある商品の半分は
お茶を取り扱っています。
「霧島のお茶とよかもん(「よいもの」のこと)」を略してお二人のお店を「きりん商店」と
名付けました。



はじめはお二人で商品開発を試みましたが、地元の方がアイデアを出してくれたり
良いものを作ってくれて良い循環が生まれるので、商品を売ることに専念しました。 


お茶を入れたりきちんとしたデザインは明寛さん、雰囲気がゆるかったりほっこりした
デザインは真弓さんが担当しています。 


・訪れた日の朝(!)に真弓さんがデザインしたという、出来立てほやほやのラベル


同じことを一緒にやらず、お互いの特性をそれぞれ活かして鹿児島や霧島のよかもんを
お二人がデザインして伝えています。


 きりん商店


◆旅を終えて
さまざまな働き方、暮らし方をしている方々に会いに行ってお話を伺いましたが、
当事者意識を持って仕事に取り組まれているのが一番印象に残りました。


私は会社に所属して働いていますが、仕事の成果が会社や自分の評価に直結することや、
会社のお金に対するリアリティが薄れているのを今回の旅で気づかされました。
自営業や家業を継いだ人にとっては、とにかく真剣に仕事に取り組んで
お金をしっかり稼ぐことが死活問題レベルの事柄になります。


全力で仕事に取り掛かっている皆さんのお姿を見て、今後は当事者意識をしっかり持って
仕事に取り掛かろうと思うようになりました。


また、桜島の噴火警戒レベル引き上げの報道がたびたびありますが、そのことで
鹿児島や桜島へ行くのを辞めるのはとても勿体無いことだと思います。
桜島は噴火しているのがいつも通りで、鹿児島の方たちはその中でのんびりと暮らしています。


市街地の近くに遊びに行ける活火山があるなんて、とても珍しくて奇跡的なことだと思いませんか?
東京からだと飛行機で2時間で行けてしまうし、鹿児島や桜島は以外と近いです。


みなさんもぜひ、鹿児島や桜島のよかもんを肌で感じ取りに行ってみませんか。


(レポート・写真/池田愛)