シブヤ大学

授業レポート

2014/12/5 UP

いのちのイメージトレーニング
〜救急医療の現場から〜


◆今回行われた「いのちのイメージトレーニング」の授業、先生は救命救急医の沖山翔先生です。


救急医療現場にいる沖山先生は、患者さんの家族が、突然訪れた大切な人の命の危機に心の準備ができずとまどう姿や、それまで準備をしてこなかったことを反省する姿を見る機会も多いそうです。そんな、いつ訪れるかわからない事態にできるだけとまどいや反省を少なく、冷静な判断ができるように具体的にイメージトレーニングをしておこう、ということで今回の授業が実現したとのこと。


この日集まった方々の年齢・性別・職業は様々でした。実際に自分や家族が命の危機に瀕した経験がある方、ない方がいて、医療経験にも差があります。ある人にとっては初めて聞く用語や考えたことのない事態も、別の人にとっては既に考えたことのある「今さら」の話かもしれません。それでも、自分とは全く別の視点からの考えを聞くことは、より納得のいく判断をするために必要なことなのではないでしょうか。先生は今回の授業を「正解を探す場ではない。みんなの声をよく聞いてほしい」と話していました。



◆今回の授業では2つのグループワークを行いました。


1つ目は「母か子か」というテーマです。
ある日突然、出産を控えた38歳の女性(妊娠9か月)の女性の呼吸が苦しくなり、救急車で運ばれたとします。母と子、どちらかの命しか助けられない時、あなたが現場の責任者だったら、どちらの命を助けますか?


グループワークでは、母を助けた場合、子を助けた場合それぞれのメリット・デメリットを出し合った上でどちらをとるか話し合いました。様々な意見が出ましたが、今回は全体的に「母を助ける」という意見が多かったようです。


以前、先生が小学生とこのテーマを話し合ったところ、小学生の9割が「赤ちゃんを助ける」と回答したそうです!その時の状況(当事者の年齢・体調・経済状況等々)もさることながら、自分との関係や立場(親子、夫婦、きょうだい)によっても判断が変わってくるのでしょう。


 2つ目のグループワークのテーマは「延命すべきか、せざるべきか」。
この状況説明は、先生(医師役)と授業コーディネーターの秋山さん(夫が交通事故にあった妻役)、授業に参加していた生徒さん(看護師役)の3人のロールプレイによって行われました。具体的な医師の説明、現実味のある妻の狼狽などを目の当たりにして、もし自分が当事者なら…ということが考えやすくなりました。


 ○交通事故にあった夫は人工呼吸器による治療をしなければ数時間の命である。治療をすると、数日間から場合によっては数十年延命される。


○治療をしても目を覚ます(開眼する、会話ができる)可能性はないに等しい。


○人工呼吸器を一度つけると、後からそれを外せなくなる可能性もある。


このような状況において
    1.もし自分が患者だった場合、どのような医療を望むか
    2.もし自分が妻だった場合、どのような医療を望むか
    3.立場によって希望する医療は変わるのか、またそれはどのような理由なのか
ということをグループで話し合いました。


自分は延命治療を望まないが家族には望む、という意見、その逆の意見、自分の場合も家族の場合も同じ治療を望む意見など、様々な意見が飛び交いました。どの意見の理由も納得のいくものだったので、参加していた私は思考停止しそうになりました。


  
◆頭で判断できることと心で納得できることはちがう


 「延命すべきか、せざるべきか」という話合いの中で「誰のための命だろう」ということを考えてしまいました。私は家族に延命治療をしたいと思うけれど、家族はそうしてほしいのだろうか、それは自分がそうしてあげたいというだけ、自分のためなのではないかと…
苦しい、とか頑張りたいとか、本人がどう感じているのかわからないから周りは苦しむのだと思います。


本人がどうしたいのか、本人と話しておくこと

自分がどうしたいのか周りに伝えておくこと

そういったことをリビングウィルや普段の会話を通じて行うことが必要だと思いました。
でも、そういう準備をしていてもいざとなったら、家族や近しい存在の場合はどうしても感情的になってしまう気がします。話合いの中でも「判断の基準を決めるのは難しい」「生死は受け入れられるが、判断はできない」という意見が出ました。


法的な基準や誰かの指示があれば、それに従うことができます。しかし、そうではなく「自分」が大切な人の生死を決めるのだという責任は、私たちに重くのしかかります。自分の選択に自信をもつことはとても難しいです。その時、沖山先生が「頭で判断できることと心で納得できることはちがう」という話をしていました。


残された人たちがその後も生きていくためには、感情的に納得できる道、自分たちがしてあげたい方法をとることも大切なのかもしれません。ロールプレイングの中に「どのような治療を選ぶかについては、一番身近なあなたに決めてもらう必要があるのです」というセリフがありました。決断の責任はとても重いものですが、身近な存在である、自分たちにしか背負えないものなのだと思うと、大切に抱えていきたいという気持ちになりました。


 ※終末期(生命維持処置を行わなければ比較的短期間で死に至るであろう、不治で回復不能の状態)に、「うけたい医療」をあらかじめ文章化しておくもの。授業では実際に記入してみました。


 
◆死に関することがタブー視されている


授業の中で、先生は「死に関することがタブー視されているのではないか」ということも語っていました。確かに、急に家族に「私が延命治療することになったらさ…」と話し出したら、「急にどうしたの!?まだ全然元気じゃん~」と言われてしまいそうです。


でもそれは、自分や家族の死について何も考えていないからではなく、正面から向き合うのが怖いからかもしれません。現に、この日授業で初めて会った人たちとは自分の抱えている想いを話すことができました。話すことそのものよりも、話す場を作ること、話し出すきっかけをもつことになかなか踏ん切りがつかないのではないでしょうか。


もしかしたら、1回きちんとした場をもうけよう、と思うからきっかけが掴めないのかもしれませんね。1回で済むような話ではないから、形式ばらずに何回か話す場をもてればいいなぁと思います。一緒に見ていたドラマやニュースのシーンをきっかけにして、「こういうときはこうしてほしいな」と少し言ってみるとか…たとえそこで茶化されたり流されたり、怒られたり悲しまれたりして話し合いにならなかったとしても、そういったやりとりを通して、日ごろ隠れているその人の死への想いが垣間見えるのではないでしょうか。


この日の授業では、自信のなかった自分の意見が他の人に賛同されると、自信がわいてきました。逆に、賛同されないときや理解しがたい意見と出会ったときは不安になることもありました。でも先生は、その「モヤモヤした気持ち」が大切なのだと話していました。自分と他人の違いを認識して、考え改めたり、自信を持ちなおしたり…そういうことを繰り返しながら、いつかくる日に心が納得する決断ができるように、準備ができたらいいと思います。


 (ボランティアスタッフ:中野恵里香)