シブヤ大学

授業レポート

2007/2/24 UP

表現という自由

アラキさんにとってのアートとは“生きる手段”であるという答えから話は“愛について”へ。愛、深いですよね。動物的な、例えば親ネコが子ネコをいたわる気持ち、動物が子どものために食べ物をとってくる、といった“愛”はわかるけれど、人間の愛はよくわからないものと言うアラキさんに対し、一青さんは日々、瞬間的に愛を感じるとのこと。おいしいラーメンを食べて「ありがとう」と感じたり、誰かに何かを許された時等にも感じることで、一青さんは「ありがとう」という気持ちをすごく大切にされているのだそうです。又、一青さんが体験したエピソードで、小さなお子さんを抱えたお父さんが一青さんに近寄り「握手してください!」と言われたとき、どうやってこの子に愛を伝えようと思った一青さんはそのお子さんにキスをしたと。その時自分にもこんな事ができるんだなと、自分の中に愛を感じたというのです。私自身、「ありがとう」と言葉に出すことは人と人との関わりの中で気持ちを表すとても大切な表現であると日々感じているのですが、素直に表わすことの難しさを感じることがあります。やはり、多種多様な表現がある中で、その一つひとつに“愛”を持つというのは表現がお互いに気持ち良く伝わるためにはすごく重要なのかもしれないと、お二人のお話を伺って改めて感じました。
又、高校の写真部のコーチをされている先生から「お二人が指導する立場であった時、生徒に表現の自由をどんな風に教えますか? どのようにすればワクにとらわれずに表現できると思いますか?」という質問では、アラキさんは「ワクにとらわれていい!」とおっしゃっていて、以前アラキさんが知的障害者の方の作品を観る機会があったそうで、その方は鉄骨が大好きで、鉄骨しか描かない方。アラキさんから見ると、幾何学模様にしか見えないその絵は、描いたかたに言わせると「設計画」なのだそう。写真においても、ひとつのモノをただずーっと撮っているだけではダメだけれど、ひとつの事を観照し、自分が何故それを撮りたいのかを考え、こだわるべきで、それは生きることと同じだとおっしゃっていました。何故これをしなければいけないのか、何故働かなければいけないのか、何故、何故……と考えるものではないかと。だから何をするために写真を撮っているのか自分を知り、こだわるために、教師は“何で? 何で? 攻撃”をするのが良いというお話でした。そうする事で物事を突きつめられるということですよね。
つまり物事を突きつめていくと、いつかは破壊し、ワクが取れる。なるほど納得してしまいました。人間誰しも先入観であったり、当たり前であると思っていることがあって、その考えや思いを変えるのは簡単ではないけれど、「何でそう思うのだろう? 何でこうなっているのだろう?」と疑問を持ち、自分の中に問いかけると同時に、その思いを誰かに表現することで気づくことがあったり、固執した考えから解放されたりすることがあって、そのためには、ある部分でのこだわりを追求していかなければならないのだなと感じました。
最後は、生徒さんの中から挙手で選ばれた質問。今度は中学校の教師をされている方から「個性を大切にしようと言われながらも、個性を発揮できていない気がする。お二人が個性を発揮しようとした(例えば歌だったり、写真だったり)きっかけは? そしてお二人がどんな恩師にどんな支援をしていただいたのですか?」という質問でした。一青さんは学生時代、詩のコンクールがあった時に、一青さんの詩を担任の先生が匿名で読んでくれたことで認められたと強く思い、そのことがすごく嬉しくて、もっと詩で表現しようと思えたそうです。それに対してアラキさんは自己主張することを周りに認めてもらえず、そのことでとうとう胃潰瘍になって入院されたこともあったそうで、褒められたらラッキーというくらいだったとのこと。なんとアラキさんは「この授業は嫌、この先生は合わない!」と思うと、後ろを向いて授業を受けていたそうで、それには生徒さん達もビックリしていたようです。正反対な部分も多いお二人でしたが、結局のところ、世の中には色々な考え方の人がいて、あらゆる手段で自分の意志を、強さを自ら出していくしかない。“これを表現したい”と強く持っていないとダメになると思う。とおっしゃっていました。お二人いわく、先生であったり、大勢のクラスメートの中の一人であったりが自分を見てくれていると、何か共感してくれてると感じたときに楽になることもあるのではないか、生きる事とは人の気持ちを察したり、状況を察することであり、要するに生きること自体が表現であって、生きることは大変であるということを一人ひとりが自覚しなければいけないのではないかと熱く語ってくださいました。(ボランティアスタッフ 森川 祐美子)