シブヤ大学

授業レポート

2009/6/25 UP

「昨日のことは、水に流そう。」

昨日、仕事でミスをした。
先週、彼女とケンカした。
最近、両親と上手く話せない。
不景気で、会社の雰囲気がギスギスしてる。
なんとなく、世間のせわしなさについていけなくて。つまずいた。

そんなの全部。水に流そうか。

6月20日、天気は晴れ。今日の授業は明治神宮で禊(みそぎ)。
禊とは、神道の教えの中で神様が嫌う不浄を洗い流す行為である。
水には清浄の力があり、禊をすることで神に近づくのにふさわしい身体にするのだ。
この神道的発想から、日常生活で起こった良くないことを清算する行為を「水に流す」と表現するのだ。
集まった生徒さん達も、嫌なこと、悔しいこと、不甲斐ない自分を水に流して、新しく前に進もうという想いで
集まった。(のだろう。)

まず僕たちは、禊の意味や起源を神職の先生から教わり具体的な禊の方法を指導していただいた。
禊には前述の様な意味があり、その起源は「伊邪那岐大神が黄泉の国で触れた穢を荒い清めるため、
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において行った」ことに発するという。
禊の前には、鳥船という準備運動の様な行為があり、まずはこの指導から始まる。
基本的には腕を前後に動かす行為と、かけ声と、詞(うた)の組み合わせで、「エイ。ホー」といったかけ声と6節からなる詞を読み上げる間、足を前後に開き、両手を前後に動かす。手の動きはボートを漕ぐ動きに似ている。最後に、「エイ!」と右手で空を切って鳥船は終わり、立て膝を付き水を桶ですくい体にかける。
なかなか声が出ていないことを指導されながら、集まった29人の生徒は声のボリュームとテンションを徐々に高めていった。

指導の後、いよいよ禊場へて移動。まず畳の部屋でお祓いを受け、いよいよフンドシへの着替えだ。
参加者全員が初めてのフンドシで、神聖な場であることは解っていながらも妙にテンションが上がってしまった。解説すると、フンドシは長い布の片側の端に紐が付いており、この紐を腰に撒く。布は後ろから前へと持って来て、へそ下で結ばれている紐の間を通す。そして布を前にたらし完成。シンプル、そして無防備な下着だ。
(※注 フンドシは男子のみです。20人の男がフンドシに悪戦苦闘している様を想像してください。)

いよいよ、禊がはじまる。

フンドシを締めると気合いが入るのか、水を前にして興奮状態なのか、鳥船のかけ声が練習の時とは段違いに大きくなっていた。「エイ。ホー。」「エイ。サー。」6節までの詞が終わる頃には、声がかれてきていた。

「エイ!」手で空を切ってしゃがむ。
先生の合図と共に禊、開始。

「エイ。エイ。エイ。エイ。」かけ声をかけながら体に水をかける。
バシャバシャと水しぶきが飛ぶ。もちろん水は冷たい。体は冷える。しかし、かける。
次第に水を溜めている桶の水位が下がっていく。それでも、かける。

「パン」先生の終了の合図。
わずか5分足らずだったが、人生で初めて味わう禊は、なんとも不思議な後味を残して終わった。
「寒い」というよりは「清い」という表現が合う、そんな体の冷え方だった。

服を着替え、清くなった体で僕らは本殿への参拝を行った。白装束を身にまとい清めた体で歩く参道は、
6月の緑が爽やかで清々しい気持ちを味わわせてくれた。

グループに分かれて行った終了後の振り返りでは、参加した動機や感想をシェアした。
やはり、日常での嫌なことを振り払いたかった、心機一転でがんばりたかったなどの動機が上がっていた。
禊を終え清々しい気持ちになった僕らだったが「次は真冬に参加したい」「瀧での修行もしたい」などさらなる清さを求める声も上がっていた。

人は罪で汚れる。けれど、それは水に流せる。
禊の行為には、
「人生は、失敗しても何度でも繰り返し立ち上がれる。」
そんなメッセージも込められている様な気がした。

さあ、明日からまたがんばろう。

(ボランティアスタッフ 竹田 芳幸)